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著者歴然 僕について語る時に僕が語ること(9) [『優等生』あれこれ]




 20代の半ば、私は自殺について考えたことがありました。
「もう死んでしまおうか、それともまだ生きていようか」という、ハムレットのような状態が自殺者の心理なのではないかと、まず想像しました。
 つまり私が考えようとしたのは、自殺あるいは自殺者についてではなく、自殺を考えている人間の状態のことだったのだと思います。
 私は自殺を考えていた=自殺しようか悩んでいたわけではありません。一般論的な意味での自殺について考え、どういうものかを知り、結論を出しておきたいと思ったのです。

「もう死んでしまおうか、それともまだ生きていようか」、きっと自殺を考えている人はそのように考えるはずです。
 そういう人に、石を投げるとします。唾を吐いてもいいし、「馬鹿野郎!」という罵声を一緒に飛ばしてもいいかも知れません。
 彼または彼女はどうするでしょうか。
 たぶんよけるだろうと私は想像しました。
 石が飛んできたらよけるだろうし、唾がひっかかりそうになったら身をよじるだろうと考えた、ということです。

 動物的な本能はヒトにはありませんが、だとしても彼または彼女の避難行動は、防衛本能の残滓くらいではあるだろうと思います。
 動物でもあるヒトは、身の危険を感じたら反射的に(条件反射的に)それを避けようとする。唾がかかって人が傷を負うことはありませんが、ですのでこれはヒトに固有の防衛本能の残滓だと思います。
 自殺に関する私の結論はこういうものでした。

「死んでしまおうか、まだ生きていようか」「死にたい、でも死ねない」、そういった葛藤を自殺を考えている人が持つとして、つまりここで、死と生はイーブンな関係にあります。死にたい気持ちと生きたい気持ちが同じくらいにある、つまり死と生は半々、50%対50%、五分五分、選挙でいえば1票対1票です。
 でもそれは頭の中でのことで/心の中でのことで、体のほうは、これからも生きようとしています。身の危険を感じたらそれを避けようとするからです。
「死にたい」と「生きたい」は、頭の中では1票対1票でしたが、体も「生きたい!」と思っているのだから、全体でいえば、「生きたい」票が1票増えます。
「自分全体」で多数決をとったとき、「死にたい」は1票、「生きたい」は2票になる。
 なので私の結論は、自殺に悩んだ時には「生きることにする」というのが正常な判断だ、というものでした。

 もちろん、少数意見にも耳を傾けるべきです。多数というそれだけで少数者を無視するのは問題だし、むしろ、少数意見のほうに真実や本質が含まれていることも少なくありません。多数決が正しいなど、まやかしです。

 ですので、少数意見だとしても死を選ぶことは、けして間違いではないはずです。
 ただ、この場合の問題とは、そうして最後に死を選んだとしても、「自分全体でいえば、まだ1票対1票である(あった)」という点です。
 有無を言わせぬ説得力で頭が、死のみを結論したとしても、それでも体は生きたがっている(生きたがっていた)ことに変わりはありません。
 石を投げつければその人はよけるだろうし、よけきれず顔に当たれば傷になるでしょうが、その傷は一方的に治癒します。彼または彼女がいかに「死にたい!」と思っていても、でも体は、傷ついた本人自身を治し、一方的に生きようとしてしまう。
 パーフェクトに死にたがっている頭と、パーフェクトに生きたがっている体、この関係はイーブンで、同等であり、ゆえに対等です。
 それでも死を選ぶとは(選んだとは)、このイーブンな関係を放棄することだと思いました。頭の意思を体に押し付け、無理に従わせるものです。

 体は脳ではないので、何も言いません。
 ただ静かに、連綿と、誰の目も気にせず、生きようとしています。
 こちらのことなど気にせず、眠ろうとしようとし、排泄をしようとし、食べようとし、正常な健康を保つことしかしようとしない。
 なんとなく体は、植物に似ています。
 私はいつも、体に監視されている気持ちがしています。
 そして保護されているような気持ちでいます。
 いえ、私が何を思い考えようと、(そしてそれが正しかろうと間違っていようと)、私自身は意に介さず、自由に生きていくのだろうと思っています。
 ときどき私を見つめながら、「まあ、考えたいように考えればいいさ」などと、他人事のように。その考えからおまえが行動し傷つくことがあったとしても、おれは治していくと。





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