So-net無料ブログ作成
検索選択

二章 実技編 7/まとめ [正しい本の読み方]



 7 初歩の七歩:対話的に読む 補3

「どうしても分かんないとこをどう理解するか」を前節では話しましたが、これでひとまずみなさんは、一冊の本を読めるところまで行ったことになります。なので次はこれですね。本当に読めているかを確認する。


③自分の理解度を自分で測る方法

 ある本をちゃんと読めているか、客観的に自分が理解できているかどうかを知る方法はいくつかありますが、まず有効なのはこれです。

・他人に説明してみる

 本に限りませんが、ある物事なり文化的表現なりへの理解を客観的に知りたければ、他人にその本のことを話してみるのがいちばんです。もちろん感想を話すのじゃありません。その本がどういう本かを説明するんです。要するに解説ですね。
 文芸だったら、どういうストーリーでテーマは何か、どういう人物が出てくるか、彼らの性格や特徴はどういうものか──まあそういう、「解説」に書いてあるようなことを他人に説明する。
 ちなみにべつに、「個人的な感想なんか話すな!」と言ってるわけじゃありません。話したければ話せばいいし、たぶん話したいだろうから話したほうがいいんですが、その前に、「きちんとした紹介をしてみましょう」ということです。
 きちんと紹介して、それから「…ていう本だったんだけど、あたしはね、そのラストがもう、もうもうもう、がーんっなのだー!」とかまあ、そういう感情爆発自分しだいをやんなさいね、てことです。
 ともあれ紹介は口頭でしてもいいですし、書いてみてもいいですが、その両方をやったほうが効果的です。

 口頭で説明すると、たぶん相手はいろいろ質問してきます。質問をされるということは、自分の話に分かりづらい箇所、説明の足りていない箇所があったということです。なのでその後はそれを参考にする。
 口頭での説明とは違い、文書にしてみると、自分の話が形として残りますから、あとで自分で確認することができます。「この話で通じるかな、なんか足りないとこはないかな」みたいにチェックしながら、足りないところも補える。それを誰かに読んでもらって質問されたら、そこが足りないということなのだから、書き加えることもできます。けれど、たぶんそこでも「足りないとこのこと」は口で説明することになるのだから、口頭での説明と同じものになるでしょう。
「喋る」と「書く」はそういう風に連携/補完するもので、「喋る」という自由度の高いやりとりと、自由度は低いけど客観的に話をまとめやすく修正もできる「書く」を交互に行いながら、自分自身の理解度を測っていくわけですね。
 これが出来るようになったら、次はこれです。

・他人に教える

 ある物事を自分がきちんと理解できているかどうかは、「それを他人に教えることが出来るかどうか」でもっとも客観的に知ることが出来ます。つまり教育ができるかどうかです。
「それは説明できるかどうかと同じじゃないか?」と思うかも知れませんが、場合によってはそうです。例えばその説明の相手が、自分より低レベルな相手ならその「説明」も「教育」にはなります。
 つまり大事なのは「自分より程度の低い人」「自分と違う人」「自分に似てない人」に説明し、理解させられるかどうかだというそこです。

 友達うちで、いつもの話し方で、「こないだ読んだ湊かなえの『告白』ってすごい話でさー」と説明する。同じ調子で友達も質問してくる。この関係で相手の理解を呼ぶ「説明」はちょっと頑張れば誰にでもできます。なぜ出来るかというと、「往々に友達とは、価値観が共有されているから」です。(ていうか、似たような価値観を持ってるからこそ「友達」になってるわけですけどね)。
 けれど、価値観なり知能の程度なり質なり、ボキャブラリーなり文化的趣味なりが異なっている相手に、何かを説明し理解してもらうというのはものすごく難しいんだったりします。それが「教育」ならもっとです。

「知っている者が知らない者に教える」のが教育ですが、つまり教える自分は上だし、教えられる相手は下です。この関係で最初に必要なのはなんだか分かるでしょうか。

・相手のレベルまで自分を落とす

 というものなんですね。相手がどの程度のレベルにいるかを見定め、そのレベルに合わせないと相手は理解できるわけありません。だから自分のほうから相手のレベルに合わせる。もちろんそのためには、「自分より程度が低い人というのは、どのような内容を持っているのか(または持っていないのか)」が分からないとなりませんから、そういう想像力なり分析力も必要になります。
 そうして「教育的に解説」をしてみれば、たぶん初心者の人はみんな気がつくと思います。「自分の話がまったく通じない」ことに。

 友達うちでは十分に通じているのに、でも相手が変わったら何も通じない。価値観を共有していない相手には、何をどう説明すればよいのか見当もつかない。そういうことは往々にあります。これが教育ならもっとです。つまり「相手が知らないことを、知っているこちらが教える」をやろうという場面ではもっとだということです。けれど、これが出来ないなら、実はあなたはその本を客観的に理解できていないんです。
 客観的な理解とはその通り、「誰から見てもそうだと思われる理解の仕方ができている」というものです。だから友達はもちろん、親の世代の誰かでも、妹や弟の世代の誰かでも、他県の人でも外国人でも、大工のおにーちゃんでも水商売のおねーさんでもプログラマーでも社長秘書でも、必ず通じる話を出来なければ、それは「客観的に理解している」にならないわけです。

 *

 この「正しい本の読み方」や『読書入門+』はまんま教育書ですから違和感ないと思いますが、実はおれは、ふだんからこういう話し方をよくします。つまり教育的な話し方ですが、今風にいえば上から目線でこんこんと説明し理解を促す話し方/文を好みます。なぜそうかというと、「相手よりまず自分自身に理解を促すため」だったりします。
 ある本について誰かに教える以上、自分はそれを理解していないとなりません。自分が理解していないものは他人に教えることは出来ません。そんなの当然です。自分がそれを教えられないなら、自分はそれを理解していないことになります。逆に、自分がそれを教えられるなら、自分はそれを理解しているということです。
 あえて教育的に話すとき、自分は必ずそれを理解しないとならない立場に立ちます。だからおれはよく勉強します。調べたり考えたりします。ほっとくとそういうことを何もしないぐーたらといえばそれだけですが、同じような性質の人はこれは効きますよ。「最初っから教育的な話し方をしてしまう」。
 それで相手がちゃんと理解し、学習してくれたなら、あなたの理解は客観的です。

 まずは、「友達にその本を紹介する」から始めましょう。そうして徐々に、「ふだんの自分の話し方じゃ通じない人」「自分たちに似ていない人」向けの話に広げていく。ボキャブラリーを増やし、違う価値観を受けいれ、それでもその相手に自分が読んだ本のことを紹介できるようになる。そういう話し方をマスターしていく。
 自分ひとりにしか通じない読み方をしているうちは、その本のことを読めていません。その本のほんとうの姿を分かっていない。他人に共有されて、はじめてあなたの感想や解釈は「感想」になり「解釈」になるんです。あなたの理解はちゃんとした「理解」になる。
 そして、あなたの理解を共有してくれるべき他人の、究極が誰かといったら、それは書き手さんです。文学賞の選考委員でも高名な書評家でもないし、神様でも仏様でも、お天道様でも宇宙でも真理でもありません。「その読み方であってます。そのつもりで書きました」、そう書き手に言ってもらって、はじめて読書は終わるんです。





 まとめ

 正しい本の読み方についてまとめましょう。まず基本中の基本はこれです。

●書いてあることをそのまま読む
 書いてあることをそのまま読むとは、つまりは「書き手の意図どおりに読む」ということです。
 その本や作者がほんとうに言っていること、言いたがってることを知ることだし、その本や作者がほんとうに持っているものは何かを知る。
 つまり、本をすっぱだかにする読み方が「書いてあることをそのまま読む」。
 この読書で、主役は本、読み手は本に従う立場。ゆえにもっともいけない読み方は「自分なりの読み方」「自分なりの楽しみ方」といったもの。先入観や思い込みも邪魔。

 この基本中の基本の考え方、スタンス、読み方を実行するのに必要なのはこれです。

●対話的に読む
 書き手の意図どおりに読むとは、「書き手はどういうつもりでこの言葉/文/段落/章/小説を書いたんだろう」と想像しながら読むということ。
「どういうつもりか」を知るには、直接本に聞くのが当然てっとりばやい。つまり本とコミュニケーションしながら読めばよいということ。ふだんどおりの人間関係みたいにおしゃべりしながら読書をする
 相手の話にあわせて相槌を打ったり、合いの手を入れる。疑問があったら聞けばいいし、よく分からなかったら聞き返せばいい、それでも分からないことは他人の手を借りる。そんだけ。
 読書がすんだら友達に話す。「こないだこういう本読んでさー」。これも日常的なことだけど、そこでちゃんと紹介できればあなたは本が読めてます。

 話してしまえばこれだけのことなんですね。人間関係とは常に「相手を理解する」の繰り返しですが、だから同じことを本にもやればいいと。
 本だからって特別なものではないし、また、特殊なものでもありません。「文は人なり」。文章/文書/本とは要するに人間なんだ、ということです。
 そして、気づいていた人も多かったでしょうが、今回紹介してきた「本の読み方」とは、実はふだんからみなさんやっていることです。ことに実技編で紹介したのはどれもそうですが、誰だって読書の最中に同じことをやっている。
 買ってきた本の最初のページをめくるときは誰だって「どんなことが書いてあるんだろう、どんな話をこの作家さんはしてくれるんだろう」と思います。描写があれば自然とそのシーン/絵柄を思い浮かべるし、疑問があれば「これどういうことだ?」とも呟くし、文のあいまあいまで「なるほどね」「そうきたか」と合いの手を入れるのもふつうです。脱線はしょっちゅうだし、その脱線の中には「やばい、この単語知らない」で辞書を引く時間も入るし、「どこをどう読んでも意味不明な文を何度も何度も読み返している」もふつうにありましょう。
 そして何より読書を楽しんでいるときは、本こそ「自分を楽しませてくれる主体」で、その導きに従っているこちらは「客体/従体」なんです。(にもかかわらず「自分なりに読むのが読書」「自分なりに楽しむのが本」などという風潮に流されて、本との関係が分かりづらくなってしまってるのが今なわけですが)。

 読書の最中には誰だって同じことをしているし、つまりあなたはもう「正しい読書」の基本を我知らず行っている、わけです。
 では何がカズノはいいたかったのかというと、

・ふだんからしていることを、意識的に行ってみること
・それによって、自分は本との関係の当事者だと自覚すること

 が大事だということです。「我知らず」をよして「我知って」にしなさいと。そうして、当事者意識をちゃんと持てということです。
 だから「ふだんはモノローグ体で思っていることをダイアローグ体にしてみなさい」「疑問があったら声に出して質問しなさい」「辞書がどれだけ大切なパートナーかを実感をもって理解しなさい」などなど、そういう話し方をしてきました。あなたに固有の人間関係同様、その当事者である自覚を本に対しても持ちなさいと。
 友達や親や子どもや知り合いを理解するように、本も理解する。本をすっぱだかにして、恋人と愛しあうようにコミュニケーションする。その時間はとうぜん至福なわけです。
 だからそうそう、これも大事でした。

・自分もすっぱだかになる

 読書だからって気取っていてはダメです。それは単なる見栄っぱりの耳年増です。逆に、相手が幼稚だからってこっちも幼稚になったり、かえって大人ぶったりするのもダメ。それやるとロリコンになります。
 こっちもすっぱだかになって、対等に愛しあう。じゃないと恋愛なんてどこも面白くありません。言い換えると、その恋愛は恋愛の名を借りた主従ごっこです。要するにSMですね。

「対等」とはなんでしょうか。それは「上下関係にない関係」ということではありません。「上下関係がころころ入れ替わっていく関係」のことです。これはそのまま「対話」というものをイメージすれば分かります。
 対等で公平な関係でも、対話ではいつも、「語り手」が主導権を持ちます。「聞き手」は受動的で、彼の話を聞く立場です。彼が主であり、こちらは従です。彼の話がテーマであり、場の在り方や空気も決めています。
 けれど、彼の話を聞き終わったこちらは、彼の話に質問をしたり意見を述べたりします。つまりこんどはこちらが「語り手=主」になり、彼が「聞き手=従」になるということです。そこからの話の/場のテーマや空気を決めていくのはこちらです。
 そういう風に、主従/上下がころころ入れ替わっていく関係、ころころ入れ替わることが出来る自由な関係を「対等」と呼ぶんですね。
 一方的に上下ではなく、固定的に主従ではない。かといって、常に上にも下にもなれないまだるっこしい関係でもなく、リードすべき人間が相手に遠慮するばかりに何も進まない関係でもない。互いが時に主になり従になる、上にもなり下にもなる、こういう関係を「対等」と呼びます。

 だから読書では、本に対して、どんどん発言しろと言ってきました。読書は本が主で読み手が従ですが、あなたがリードすべき場面では、やはりあなたがリードすべきなんです。例えば批評家や、あまりに率直かつ正しいコドモのように。
 セックスのとき、リードするのは男性という常識はまだありますが、相手が童貞なら女性がリードしないとならないし、処女と童貞なら手探りで「都度々々の場面でのリーダー」になるほかないし、いい加減そういうことになれた男女なら、その駆け引きなりあうんの呼吸こそ楽しむシチュエーションにもなりましょう。この男女は、誰も対等です。
 そうして、本と「対等な」コミュニケーションを持ってください。すっぱだかになってください。

 ふだんだったらとうてい出来ない、アホな質問もどんどんしましょう。はすに構えてイヤミになったりする必要もありません──そうやって自分を守る必要もない。
 本は頑固で動きません。もう印刷されているからです。でもだから、本はぜったい待っていてくれる相手です。こちらが望めば必ず受け入れてくれるし、必ずいっしょに遊んでくれます。本は寛大で公平です。照れる必要もないし、恥ずかしがる必要もない、見栄をはる必要もありません。本を信じましょう。





 あとがき

 ここらへんまでが正しい本の読み方の基本です。基本ですが、あとはその繰り返しです。応用が入ったとしても基本は基本なのでそうです。
 ま、そのうち「正しい本の読み方 三章 必殺技編」というのもやろうと思っていますが、いつになるかは分かりません。それまでのあいだは、本でも読んで待っていてください。もちろん、この「基礎編」「実技編」を守りながら。

 ここまで話しておいてなんなのですが、結局のところ量なんですよね。なんでもそうですが、一定量をこなせば、おのずとその世界に通じている状態にはなるものです。
 けども、基本的なフォームすらマスターしていない人が、どれだけ練習や応用を重ねてもスポーツ上手にならないのと同じで、やっぱり読書にも「基本的なフォーム」というのがあるわけです。
 いくら音楽を聞いてもぜんぜん音楽が分かるようにならない人も、「音楽の聞き方を基本のところで間違えてるから」です。そして往々にそれは、「自分の聞きたいところしか聞かない」態度によっているもので、つまり彼の音楽観を乏しくしているのは例の「自分なり」というやつなんだと、そういうことなんですよね。

 今回はおれの師匠の高橋源一郎をよく引き合いに出しましたが、「センスのよい書評家のように、客観的に本を理解しながらもその人にしかできないような鋭い批評=本にまつわる有意義な理解とおしゃべり」をしたいと思う人は、まさにその高橋さんのように、自分なんてものはよそに置いて、「書いてあることをそのまま読む。その小説がどういう姿をしてるのか、作者は何をいいたいのか、自分はこの本/作者とどういうコミュニケーションができるのか、それだけに集中する」をしてみてください。
 そしたらいつか、(高源師匠のように)あなたにしか話せない本の話ができるようになるという、逆説的ですが、そういうものなんですね。
 だからこの「正しい本の読み方」の基本──基礎編・実技編を守って、とにかく読んで読んで読んでください。そうして待っててください。必殺技編。

 の前に、あとまあ、現実は現実でちゃんと受けとめて生きる、というのも案外「正しい読書」のためには必要でしょう。日常とか現実とか、世間とか社会とか、そういうものにきちんと関わりながら、読書の時間を持つこと。
 本好きの人はこれを怠りがちですので、注意してください。

 じゃまたね、そのうち。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

表現てのはこういうもの 補注まだやる 練習の練習 [文化あれこれ]




①毎日書く/描く/つくる
 とにかくいつも創ってる/作ってる/表現してる状況をつくってしまう。プロはみんなそうです。


②無理難題を想定する
「クライアント」と呼ばれる人は、たいてい無茶をいいます。「いやおい、そのテーマにそのイメージの組み合わせはぜったいムリ!」としか言えない無理難題を突きつけてくる。要するによくいる「他人」です。「他人」の要求にこたえるのがプロです。
 だから極端な例文をつくると、
「最先端の宇宙理論を小学生にも分かるよう紹介する本をつくりたいんだけど、だからあまり堅くならずにでも威厳あるデザインで、今風のポップなノリも取り入れつつ大真面目っていうのかな、そういう本文デザインにしたいんだよね」──それムリです、そもそも言ってること矛盾してます、けどそういうことを言ってくるのがクライアントです。
 そういうもんだから、もうそういう状況を自分の生活に作ってしまう。
「このテーマにこのイメージはぜったいありえない!」としかいえないものを想像して、それで表現なり創作なりをしてみる。それを習慣づける。

 たぶんこれやると、いったん、ものすごくつまんない生活になります。けれど、これが逆に快感になる瞬間もあります。「あたし/おれM?」とか単純に思うのは単純です。プロの場合は「ともかくそれでギャラが入る」という担保あっての快感でもありますが、それなしでこれやれるようになったら、もうこの道しかないです。
 でもって、アマチュア表現者・創作者さんたちは、もうほとんどこれに近い状況でやってるはずです。
 だから、です。

「みんながいいと思ってくれそうなものを表現する」、なの甘いです。「無謀としか思えない注文に、それでも自己満足を得るにはどうするか?」というそれくらいが、もうあなたにはちょうどいいんです。

 たいして何があるわけでもない、つまんない日常の、ほかのぜんぶを忘れてほんの一瞬だけ自分に酔っていられる時間を持ちたいと思うこと、それは間違いじゃありません。そういう時間も人には必要だからです。ことに今は。
 だから、その時間を「苦痛でしかない時間の中にもつくってみせる」ほうがいいんです。自分向けにすべてを変えてしまおうという意識/スタンスを持つことが。その意識やスタンスを、はっきり自覚し「もうこれしかない」と思うことが。

 表現は「中間」にあればいいんです。相手と自分の。どれだけ無茶なことをいわれようとも、中間点までは自分を出していい。自分の考えと思いでつくっていい。


③受け手の顔を思い浮かべながら書く/描く/つくる
 アマチュア創作者/表現者さんに圧倒的に足りないのはこれです。その表現を受けとる相手の顔をイメージできていない。「一般性」という抽象的なイメージに向かって表現/創作を続けている(だからその表現は「プロの真似っこ」にしかなっていない)。
 客は誰なのか、それをはっきり意識すると表現は変わります。濃やかで繊細で、豊かでリアルになる。「あなたにこれを伝えたい」「あなたなら分かってくれるはず」という意識が働くからです。「この人にはこの言い方で通じる」「こいつならこういうことをしても大丈夫」、そういう「現実的な確かさ」があるからです。
 それがないから、結局は「自分にしか通じない」にしかならないという、逆説的ですが、アマチュアの人の表現/創作とはそうなります。「本人すれば他人向けなのに、でも本人にしか通じないものにしかならない」のは、「具体的な客のイメージが本人にないから、結果的に自分の中だけで熟するものにしかならない」ということなんです。




nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

表現てのはこういうもの 補注4 自己表現の勘違い [文化あれこれ]




●自己表現の勘違い

 いつからか日本では「自己」が大事にされるようになりました。民主教育がようやく軌道に乗ったという背景もあるし、連動して、自己実現そこ大事とする文化的風潮の影響もありますが、ともかく誰でも「自分自分自分」です。
 ゆえに日常でも自己主張、自己表現はふつうになりました。とくべつ芸術的・芸能的ではない、日常のささいな生活の断面でも、ひとは自己主張したり自己表現したり、つまりは自らのオリジナリティをアピールするようになりました。もちろん学校も世間もそういった個の在り方をよしとし、積極的に行うよう促しています。
 ところで、そういった環境では往々に、こういう逆転が起こります。

・主張するに値しない自己は「自己」とは呼べない

 という逆転です。認識あるいは存在の逆転。

・表現するに値しない自己は「自己」とは呼べない
・実現するに値しない凡庸な人生など「自己実現」に値しない

 というのもそうです。そういう発想に誰もが陥ってしまう。

 たぶんこういう逆転劇がリアルに実感できるのは中高生くらいでしょうけどね。あるいは「中高生の頃を思い出したときのあたし/おれ」。今は「小」も入りましょうが、性への目覚めと同時に、自己の(性的)アピールが必要だと感じる、よってそこでは「アピールに値しない自分なんて自分じゃない」という認識(極度の焦燥を伴った)が起こる。
 こういうものに似通った「アピールに値しない自分なんて自分とは認めたくない。ていうか認めない。そんなの自分じゃない」という気持ちを、自己主張・自己表現・自己実現が奨励される環境は人に持たせるものです。

 ゆえにそこでは「主張し表現するに値する『自己像』をつくろう。そういう自己像を持とう。そうしてそれを主張しよう」という考え方をする人が増えます。つまり、本来の自分そっちのけで、仮象の自己像をつくりそっちを主張し表現する、という本末転倒が当たり前に起こる。
 もちろんここで問題なのは、「そういう仮象の自己像をつくっていることに、本人が気づいていない」場合です。


●自己の勘違い

 よく「ちゃんと自分を持ちましょう」と言う人がいます。教師や親がよく口にしますが、残念、この言葉は間違いです。「自分」というのは「持つ」ものではなく「ある」ものだからです。そして、良くも悪くも「あってしまう」ものだからです。
(cf. カズノpub.『読書入門+』所収、「hon-ijbun」。閲覧/DLはここ。うちの連載「正しい本の読み方」のまえがきとしてある文書ですが、つまり「本と自分の在り方、その関係」について述べたものですが、ここでの話題にも使い回せましょう)。

「自分」というそれが物理的に宇宙に存在するのか、内的世界に幻影として存在するのかは関係ありません。ともかく、どっちの場合でも(それ以外の場合でも)、あるものはあるんです。あってしまうんだからあってしまう。そしてそのようなものだから、「自分」とは(実は)自分にも選べないものなんです。
(だから「持て」といわれても「持ちようがない」)。

 ところで、「自分は自分でも選べない」とはこういう意味です。べつに文学的な(自己陶酔的な)意味合いではない。

 例えば人は、便意を選べません。排泄欲とは、持とうと思って持つ欲ではないからです。それは睡眠欲も食欲も同じです(性欲はちょっと違います)。
「自分」とは本来(または本質的に)「自分では選べない」ものなんです。そのように。

 もちろん、「自分でも選べる自分」というのはあります。自分の思いなり考えなり、生活や人生のスタイルなりは、「こうしよう」と思って変えることはできます。それすら実は人は選べない、選んでいると思っているのは錯覚で実際には「社会的構造によって」選ばされているだけだ──そういう考え方もありますが(しかもこの考え方はそれなりに正しいんですが)、そういう面倒な話は今は置きましょう。
 選ぼうと思って選べる自分は確かにあります。ではこれはどういうことでしょうか。

 もちろん、「選べる自分と選べない自分の、両方を合わせて自分は自分になっている」ということです。簡単なことですよね。

 それくらい簡単なこと、日常的なことなのに、けども、です。自己表現をしたがる人というのは、往々に「選べるほうの自分」ばかりを優先しがちです。「主張するに値する自分こそ『自己』だ」と思ってしまう人は、もはや完全に「選べるほうの自分」だけを自分だと思ってしまっています。
 やはりこれは不健康なことなんですね。だって「主張するに値しない、表現するに値しない、自分」だってやっぱり自分で、そもそもはそっちが自分なわけですからして。

 *

 例えば、セックスのときに避妊することがあります。セックスは生殖行為でもあるわけですが、その事実を無視/軽視し、快楽行為として捉える人間はみんなそうします。あるいは避妊せず妊娠した場合、堕胎するのも人間です。これはどういうことでしょうか。
 むろん、「そもそも生殖器官が備わっており、生殖行為を行うようになっているのが自分だ」という事実を無視/軽視しているということです。自分の一部を『自分』として認めていない。あるいは生殖活動を行う生き物としての自分、というのはセルフイメージに入れていない。

 進歩的なフェミニストはみな、堕胎は女性の権利だと主張します。そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れません。おれは法=政治に興味はないので、そこらへんはどっちでもいいんですが、ともあれ確実にいえることは、彼女にとって「女性器を持っている自分」とは、「その女性器を快楽のために使ってもいいし、生殖のために使ってもいい存在なのだ」と思っているということです。
 つまり「自分」とはそのように「選択的な問題」で、「選択できない問題など無い」という考え方をしている、ということですね。

 でもだから、こういった考え方は不健康なんです。こういう身勝手で青臭い考え方に影響されないよう注意してください。
 だって、おしっこしたくなる自分も、眠たくなる自分も、お腹がへる自分も、みんな自分なんですから。「選べない自分」てのはいるもんです。

「選べない自分」と「選べる自分」、両方合わせてセルフイメージをつくってください。けして文学的/自己陶酔的な「選べなさ」を担保にするものじゃなく。
「うんちやおしっこをするような自分」「生殖機能もそなわっている自分」も含めて、セルフイメージを作ってください。
 自己表現をするときは、そこから自己表現してください。そうでないとそれこそフェミニストのように、あまりにリアリティつまり説得力を欠いた表現にしかならないからです。


※法的、学術的にどうかは知りませんが、文化的にいえば堕胎は殺人です。なぜなら、懐妊した人や夫婦やカップルはたいてい「デキた」という言葉遣いをするからです。この「デキた」はもちろん「赤ちゃんが、デキた」という意味です。周囲も同じ言葉遣いをします。産科医は「もうお腹に、赤ちゃんがいますよ」、友人知人は「赤ちゃんできたんですか。おめでとう」「デキちゃったんだ、やばいよね」。
「赤ちゃん・赤ん坊・赤子(・水子)」とは「人生のある時期における人間の呼称」です。乳児も「赤ちゃん」ですが、胎児も「赤ちゃん」です。乳児期の人間が人間であるように胎児期の人間も人間だということです。よって、胎児を掻爬しその生命を終わらせるならそれは「殺人」です。
 法的・学術的・一般論的に堕胎が許されていようがいまいが、その権利があろうがなかろうが、人工妊娠中絶の事実にあとあと苦しんだり、ずっともやもやした気分を引きずったりする女性がけっこうな数にのぼるのは、「文化的文脈において」胎児が「人間」だと了解されているからです。
 ちなみに「水子」は「堕胎した胎児」のことではありません。今はそういう使われ方もしますが、そもそもは「赤ちゃん」「赤ん坊」「赤子」などと同じ意味です。




nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ: