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二章 実技編 3 [正しい本の読み方]




 3 初歩の三歩:対話的に読む2

 対話的に本を読む、というのはつまり、当事者としての自覚を持つということです。
 もちろんけして、「あたしは読書を楽しんでる当事者なのだ」という意味ではありません。「あたしはこの小説、この作家との関係の当事者なんだ」と自覚するということです。
 自覚して、ちゃんと対話/おしゃべりをする。

 本を一方通行な表現だと思っていたり、こっちが何もしなくても楽しませてくれる娯楽と思っているうちは、本は読めません。そういう「とーじしゃ」であるうちは本とは縁がない。だって向こうからあれこれ話してくれるんだから、自分のほうからだってあれこれ話しかけないのって失礼じゃないですか。
 あれこれ勝手に話してくる相手に、一方的に話されるのも癪でしょ。だから本との関係が大事なら、こっちからだって積極的に関わって、ムリヤリにでも作者に本音を吐かせてやるー!くらいの気持ちで読んでないと、いつまでたっても本はこちらに心を開いてくれません。「そのままの姿」を見せてくれない。楽しい話をどんどんしてくれる優しい顔をしながら、でも一方的に話すばかりの頑固者でもある、本ていうやつは。

 けどまあ分かると思いますが、そんな風にして本が心を開いて、「そのままの姿」であれこれ話をしてくれるようになると、がぜん読書は快楽的なものになりますね。それまでの「楽しい」とは違う、喜びでもあるけど傷つきもするし、失望もするけど至福でもあるような、まあそういう濃厚な相手になってくれます、本は。
 要するに恋愛セックスみたいなものですから、これ。

 だから前節で話したように、分かんないことがあったらじゃんじゃん聞いて、本のほんとの姿をむき出しにしてやるー!くらいのスタンスが必要なわけです。
 素っ裸にしてやるー!。
 そういうスタンスと同時に持っておかないとならないのは、当然のことながらこれです。

・合いの手を入れる

 *

 ふだんの友達の対話/おしゃべりのように、「へえ」「そうなんだ」「それでそれで」「あちゃー、そりゃたいへんだったね」といった合いの手を入れながら読む。本とのおしゃべりの当事者になるには、ふだんどおりの「おしゃべりの当事者」として振る舞えばいい、単にそれだけの話ですね。
 けども、合いの手がないと相手もしゃべりづらいし、こっちだって、その会話に参加してる感がどうも薄い。友達といっしょに「この場を楽しんでるなあ」感が弱い。これはやっぱりさびしいことです。逆に言うと、本を相手にするときだって合いの手を入れながら読めば、(勝手に)本に参加してる感を持つことが出来ちゃうわけですね。それでどんどん充実できる。
 というわけでじゃあ、例はなんでもいいんですが、この本のこの箇所にしておきましょうか。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。私の生まれ育った家が貧乏だったからです。女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、私は勉強が好きでした。

 湊『告白』の一節、主人公・森口悠子の自己告白の一部ですが、これに合いの手を入れてみます。(分かりやすいように適当なところで改行します)。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(うんうん)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(なるほど。じゃあどういう?)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(あらま。それでそれで)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(たいへんだったんだ)
 私は勉強が好きでした。(そうだったんだ。えらいじゃん、森口)

 こんな感じですよね。はいじゃあ、みなさんもやってみましょう。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。私の生まれ育った家が貧乏だったからです。女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、私は勉強が好きでした。

 ここで注意してほしいのは、
・やっぱりはっきり発音すること
 です。前節の疑問符と同じように、頭の中でぼそぼそ呟いてるだけじゃダメ。ふだんのおしゃべりと同じように、相手にはっきり伝わる声量と滑舌で応答する。
 それから、
・なるべくふだんどおりの言葉遣いにする
 べつに本や作家といったって、特別えらいわけではないので、敬語を使いたくても丁寧語くらいにしておく。丁寧語版もやってみましょうか。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(ええ、はい)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(そうでしたか、ではどういった理由から?)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(そうでしたか、それで?)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(そういった親御さんもいらっしゃいますよね。それで?)
 私は勉強が好きでした。(そうでしたか。森口さんは真面目な方ですね。ご苦労なされたようですね)

 こんな感じ。
 最初にやったのはタメ口版、今のが丁寧語版ですが、ま、バリエーションはいくらでも生めるわけです。「同い年の友達とのタメ口」「後輩にきくタメ口」「部活やサークルの先輩への丁寧語」「先生や大人の人への丁寧語」…他他他ですが、まずはいちばんしゃべりやすい「仲のいいコとのタメ口」か「目上全般への丁寧語」くらいがちょうどいいですね。

 *

 ところで、すでに気づいてる人は気づいてるはずですが、この「合いの手を入れる」とは実は「客観性を持つ。客観性を持続する」ための方法だったりします。読書に際し必要な客観性を体得する練習、とでも言いましょうか。

 前節の「疑問を持ったら聞く」は、読書の当事者になるための最初のアプローチです。つまり能動的に本/作家を知っていくための第一歩ですけれど、こんどの「合いの手」は、そうして近づいた相手から逆に一歩引くこと、でもって一歩引き続けるという、そのためのアプローチですね。
(つまりふだんのおしゃべりとは、どれだけ親密で共感的で一心同体的に盛り上がるものでも、かならず客観性の下にあるということなんですけどね。人は「それが何かを客観的に判断してから→その関係に入っていき→盛り上がり→話題が変わるとまた客観的に一歩引き…」という運動を繰り返す生き物なんですね)。

 ともあれ客観性、ゆえにこの「合いの手を入れる」が発展すると当然、

・ツッコミを入れる

 にもなります。やってみましょう。
 そもそもこの例文は、『告白』の主人公が「教師をやめる」と突然言いだした段から繋がるものですが、

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(おいおいそこから始まるのかよ、て)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(そういうほうが特別なわけでしょ? だったらあえて言うようなことじゃない気もするが…)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(唐突というかなんというか、そっちのほうがトクベツな気が…)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(ずいぶん古いこと言う両親すねー)
 私は勉強が好きでした。(なんの自慢だっつうの)

 合いの手を入れるのはけっこう大事なことですが、こういう意味のないツッコミ版には陥らないようにしましょうね。ことに初心者のうちにこういう斜に構えた観点を持ってしまうと、後々の読書に響きます。例の「自分なり」から抜けられないまま、さらに読書が卑しくなる。
 とはいえ、そういったツッコミ的観点も持ちつつ「積極的に本に従う」も保っていると、実は「批評」が成り立ちます。みなさんにはまだ先の話ですが、その例も見せておきましょう。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(そこから話し始めるような話題だってことですね。じゃあそのつもりで聞きます)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(言う必要のないことを言うということは、なにかの伏線でしょうか。あるいは、単なる前ふりでしょうか)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(唐突な告白、ゆえに何か重要な問題に繋がるってことでしょうか、ここ)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(価値観が旧弊、森口さん何歳でしょうか?)
 私は勉強が好きでした。(進学しなくても勉強はできます、つまりあなたが欲したのは「学校という場所で教師から何かを教わるという形」だということですか?)

 こういった合いの手をきちんと分析していくと、実は『告白』(「聖職者」)の裸の姿の一部がちゃんと見えてきたりします。例えば、進学しなくても勉強はできるのにそうしなかった森口とはじゃあどういう人物なのか、という考え方をすると、「本当の森口悠子像」というのがちゃんと見えてくる。よってこれは批評になるわけです。

 最後に、もひとつ面白い例を出しましょうか。どうでもいいようなついでですが、校正者としての朱入れが批評に繋がるという例です。

 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(「何度も言われ続けた」は重複表現。「言われ続ける」とは「何度も言われる」ということ。よってこの場合、「両親に何度も言われましたが」または「両親に言われ続けましたが」が適当。ただし、重複表現による強調を意図しているならこの限りではない)

 こういう指摘をするのが校正なんですが、森口の性格を「両親に繰り返し進学を反対されたことをいつまでも根に持っているような、恨みがましくも内向きで陰湿な性格」だと考えれば、後者の「重複表現による強調」としてこの表現は通るんですよね。むろん『告白』(「聖職者」)の中で。
 でもってもちろん、この「イヤミス作品」の「いやーなところ」とは、これと同種の森口の陰険さ、陰険な事件に向けられてるものなわけです。なにもラストで嫌な気分になるまでもなく、端々に主人公・森口の内向きな陰湿さは表現されている。

 *

 合いの手を入れながら読む、というのは、

・対話的な読書の仕方を強める。それを持続させる
・そうして本や作者との親近感を強めつつも、客観性も確保できる
・最終的にそれは、校正や解説、批評にもなりうる

 というものなわけです。なのでこれからは読書では、書いてあることにふんふんうなずいてばかりはやめて、「へえ」「そうなんだ」「それでそれで」「そりゃいいね」「そりゃたいへんだったね」などなど、どんどん本に話しかけていきましょう。最初はそれくらいで十分です。「へー」とか「あらまあ」とか、そんなくらいで。

 そういう応答を繰り返していれば、もっと内容のある合いの手がうてるようになります。それこそ、親しくなればなるだけ、友達と濃い会話ができるように。
 言い換えれば、読書初心者にありがちな(現国の授業で習った本の読み方しか知らない人にありがちな)、「全体または重要な部分のみに、しゃっちょこばった『感想らしい感想』『意見らしい意見』を持つような読書」はしなくなります。あるいはその「しゃっちょこばった」に反しそれを卑下するような、あえてくだらないツッコミを入れて笑うような、品のない意見や感想も持たなくなります(ひとりきりで笑うような、または内輪で笑い合うだけの)。

 そうして会話みたいなおしゃべりみたいな読書に慣れていくと、「あ、この合いの手は我ながらうまい!」と思えるようなものも、すぐに生まれます。そういう自分じしんの言葉は、もう本に書いちゃいましょう。前節で話しましたけどね、本にはどんどんメモしていい。
 あたしはこの本のここにこう思ったよ。この本さん、作者さん、あたしはここでこう感じて、こうあなたに話したよ。そういう自分じしんと本との記録/記憶を残していく。

 はい、今日はここまで。




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一銭もつかわず電子書籍をつくる 6 [電子書籍あれこれ]



 さて、本文の執筆/編集は済みましたでしょうか。済んだらあとは目次とカバーを付けて、変換サイトでepubに変換してもらい、はい、電子書籍の完成です。まずは目次の作成からまいりましょう。

 *

 いちばん簡単なのは、wordの目次作成機能を使う方法です。「見出し」のランクに合わせて自動的に目次を作ってくれる、というやつですね。ここらへんのことはwordのヘルプに詳細が出ていますので、それを参照してください。一般にwordで目次を作るとなるとこれです。

 とはいえ、それだと例の「自動作成」ですから、あんまり恰好よくはなりません。wordが勝手に機械的に(ていうかまんま機械なわけですが)作るだけなので、今いち本らしくならない。
 というわけで、せっかくの本なんだから目次だってかっこつけたい、そういう人にはこの方法がお勧めです。(カズノの『読書入門+』もこの方法で作っています。参照してもらえば分かると思いますが、ちゃんと「本の目次らしい目次」になってますでしょ? あれです)。
 どうやってこれを作るかというと、「目次機能」ではなく「ハイパーリンク機能」を使えばいいんですな。

 まず、フォントサイズやら行アケ・字サゲやらを駆使して「本の目次らしい目次」を組みます。本文を作るような調子でやればいいだけです。
 それから、目次の各項目から「ハイパーリンク」を設定していきます。ハイパーリンクとは単純にリンクのことで、どこらへんが「ハイパー」なのかはカズノにはよく分かりませんが、本文中の好きな箇所にリンクを張って、いつでもそこに飛べるようにする機能です。リンクは外部にも張れます。奥付に自社のHPに飛ぶリンクを張っておく、みたいな使い方ができますね(『読書入門+』の「この本への感想をください」ページに、メールフォームやTwitterへのリンクが張ってありますが、あれもこの機能を使いました)。

 目次としてハイパーリンクを使う場合、飛び先の見出しに「見出しスタイル」を設定しておくか、「ブックマーク」を設定しておく必要があります。ブックマークのほうが楽かも知れませんね。単純に、本文中の大見出しや小見出しを選択して、「挿入」→「ブックマーク」を追加するだけです。
 本文を執筆/編集している時に、各見出しに「見出しスタイル」を適用していたなら、この操作はいりません。ハイパーリンクの「リンク先」表示に、もう見出し行が表示されるようになっているはずです。

 手順としては、「目次の項目を選択して」→「ハイパーリンクを設定」→「ブックマークや見出しスタイルがついた行が表示される」→「適切な行を選択し、ハイパーリンクを設定」と、それだけです。

 ちなみに、電子化変換サイトや変換ソフトによっては、この目次とは別に「勝手に目次を作ろうとする」こともあります。その場合、目次が二箇所にできてしまいます。そういうサイトやソフトを使う場合は、もうその仕様に合わせて、こちらで目次を作るのはよしましょう。かっこわるいからです。
 ただ、Romancerでepub作成する場合には、上記の方法で上手くいきます。このサイトはきちんと「どうやって目次を作成しますか?」と聞いてきてくれるので、そこで「目次はもう自分で作ったから、そちらにお願いしません」と答えればOKです。具体的にいうと、変換用画面にある「目次ページ:自動生成する」という項目をチェックしなければいいだけです。

 ところで豆知識。なんで自動で目次を作成する機能が変換サイトなりソフトなりについているかというと、電子書籍というのは、目次ファイルを独立して作る必要があるからなんですね。
 本トビラがあってまえがきなりがあって目次があって本文に入る、一般的な書籍はそういうものだし、word上でこの本を作ったらデータファイルは1つになっていますが、電子の場合、この1つのファイル(すでに目次あり)とは別に目次ファイルを作らないとならない。
 電子書籍ビューアはよく、左端や別ページに「目次項目」が表示される仕様になっていますが、あれを表示させるのに「目次のみのファイル」が必要になるからです。
 なので変換サイトやソフトには、目次(ファイル)を生成する機能が備わってるわけです。本の中の目次と、目次のみのファイルとを、同時に作ってあげる(ていうかそのふたつが無いと電子書籍にならないので、もうこちらで作ってしまいますという)機能がある。
 そういうことを知らないまま、先に目次ありのword原稿を作ってしまうと、サイトによっては二重に目次が作成されてしまうわけです。それで「なんだこれ、おれこんな目次ページ作ってないぞ。おいおいこのサイト壊れてるのか? どうすりゃいいんだ?」と疑問符の嵐になってしまうので注意してください。

 狙いどおりの目次ページを作りたいなら、さっきのハイパーリンクとRomancerの組み合わせをお勧めします。この場合でもちゃんと、ビューアの目次機能に目次が表示されるようになります。Romancerさんの変換はよくできています。

 *

 さてそれで目次をふくめた電子書籍本体は完成です。あとはこれにカバーを付けるだけです。
 カバー用の画像は別ファイルで用意します。wordの冒頭に入れる必要はありません。というか、冒頭にカバー画像を入れてしまうと、カバー(表紙)ではなく本トビラになってしまいますので、カバーを入れてはいけません。「本文ファイルとカバー画像は別にしておく」、これ覚えておきましょう。

 カバー画像は何で作っても構いません。最終的にJPGかPNGで書き出せるものなら、IllustratorでもPhotoshopでも、それらに類するお絵描きソフト・写真レタッチソフトでも、InDesignみたいなレイアウトソフトでもOKです。ワープロで作って画像化しても問題ありません。excelやPowerPointでも大丈夫です。
 文字だけってのもなんだし、それっぽい写真かイラストがあったらいいのになー、というときは、ネットでフリー素材を探せばいいです。「写真 フリー 素材集」みたいな検索語でざくざく出てきます。使用条件に注意して使ってくださいね(ま、やぶってもそう簡単にはばれないとは思いますが)。

 さてお気に入りのカバーが出来あがったら、JPGかPNGにして保存します。その際の注意点はサイズ(解像度)です。
 電子書籍では「このくらいのサイズにしておいてください」という指標がいくつかあるのですが、そのうち最大のものは「長辺が2560pix」というものです。もっと大きいのもあるかも知れませんが、ともあれ、この『2560pix』というのを覚えてください。意味は分からなくていいです。長辺(たいていは天地だと思いますが)を『2560pix』にしておけば、たいていの電子書籍サイト、ストア、ユーザー環境で問題なく表示されます。
 電子書籍の活用の仕方によっては、配布サイトなり販売サイトなりから「今のカバーより小さめの画像も用意してください」と注文を付けられますが、なのでこの最大のものを1枚持っていれば、あとはいくらでも縮小版を作れるわけですね。
(念のため、画像ファイルは拡大はなるべくしないほうがいいです。ボケるからです)。

 ちなみに、電子書籍ではこのpix(px・ぴっくす)という単位が多用されます。ピクセル(pixel)の略ですが、この単位の困るところは相対的だということです。センチやインチみたいにちゃんとした長さが決まってるわけじゃない。長さが決まるのは解像度との関係でという、これを理解しようと思うとものすごく面倒なことになるので、近寄るのはよしましょう。(けどだから、電子書籍では画像のサイズが思い通りにいかないという、前回の話になるわけです)。

「カバーは長辺2560pixにする」といわれても、何をどうすればいいか分からない人も多いと思います。その場合、Photoshopがあるなら「画像解像度」で調整します。画像を開いて、「イメージ」→「画像解像度」→「縦横比を固定、画像の再サンプルをチェック」→「ピクセル数」「高さ」を「2560」「pixel」。これでOKです。
 他のレタッチソフトでも似たような機能はついているはずです。MS-OfficeにくっついてるPictureManagerでも同じことはできますが、これはちょっとやりづらいですかね。画像の解像度やサイズをいじれるソフトを探してみてください。

 *

 さてカバーの画像も出来たので、あとは電子に変換するだけです。「wordの使い方なんかぜんぜん知らなかったし、画像のこともまったく知らなかったおれにしたら、ここまでで十分「電子」化だ!」という方もいらっしゃるとは思いますが、ともかく電子書籍にいたします。
 あとはもう電子化変換を行っているサイトなりに出向いて、本文ファイルとカバー画像をアップして、ぽちっと「変換!」するだけで電子書籍になります。
 それぞれ使い方なり注意事項なりが異なっておりますので、そこらへん注意しながらやってみてください。
 くどいようですがお勧めはRomancerさんです。ここの変換はとてもよいし、サイトじたいも親切です。さすがに純国産の電子書籍を普及させようとしたボイジャーさんのサイト+技術+サービス。シャープのXMDFどうよう、この会社のドットブックは外国勢に負けてしまいましたが(今のとこ)、それでも「電子書籍」への情熱を捨てていないところは、ま、本人たちの経済的事情もあるとは思いますが、立派です。

 *

 といったところで、おおむね「一銭もつかわない電子書籍制作」については話せたと思いますが、読んでもらって分かると思いますけど要するに、

・wordをちゃんと使えれば誰だって電子書籍くらいはつくれる

 わけですね。もっとすごい事実を付け足してしまおう。

一太郎にはすでに電子書籍化機能がついています

 そうなんです。なにもwordで作って変換サイトに行って…、などと面倒なことをするまでもなく、一太郎さえあれば誰だって電子書籍(epubとkindle)が出来ちゃうんですよね。
 つまりは、「wordや一太郎という、有名ワープロさえちゃんと使えれば、いつでもどこでも電子書籍が出来ちゃう環境になっている」んです。今って。

 ま、wordに関してはあれこれ注意してきたような問題もありますし、それは一太郎も変わらず、要はそれぞれ一長一短なとこはありますが、ほとんどそういう状況になっている。なので、あえて苦言を申し上げれば、
「ずーっとずーっとサボってきた、wordの=自分のシゴトの道具のことをちゃんと覚えるだけで、3万も5万もかかる電子化コストは抑えられる。いつかこのwordのことをちゃんと使えるようにならないとな、と思ってきた、それを実行するだけで、自社の出版物をどんどん電子書籍に出来る」わけです。


 お忙しいことは分かってます。編集職だけだってたいへんなのに、パソコン? ワープロ? word? なのいちいち覚えてらんないよ! だとは思います。
 けれど、ほんの一週間か十日か、それくらい集中するだけで、この程度のことは誰だって分かるようになるんですね。電子書籍にちょうどいいwordの使い方が誰だって分かるようになる。そしてそれは、印刷にちょうどいいwordの使い方でもあるんです。

 もっともシンプルに原稿指定をするようにwordを使えば、おのずと印刷屋のオペレータにも扱いやすいデータになるし、指定の意図が分かるものになります。
 ごてごてwordで作り込みすぎず、wordに独特の「自動化」機能も使わず、「文字、その連なりである文を、自分はどうしたいか」だけで原稿データを作ってもらえば、製作オペレータにとって、これほど楽な仕事はありません。それは、紙も電子も同じです。
 言い換えれば、製作サイドに負担をかける分、みなさんは余計なコストを書籍製作にかけているということです。紙用・電子用に入れる原稿整理に1万かかるとして、月に3冊頼むなら、年間で36万が「ムダに」消えている。

「ワープロさえちゃんと使えれば、誰だって電子書籍は作れるし、それがプロの編集者ならもっとだ」という、今現在の環境とは、実はこういうことが白日の下にさらされてしまう状況なんだったりします。
 つまり「編集者のくせにワープロの使い方も知らない。自分の仕事の道具のことをまったく分かってない」。


 ながらくボーナスをあげられなかった従業員さんに、どうかその36万を使ってあげてください。ご家族で出版社をやっているなら、子どもに何か買ってあげてほしいと思います。
 そういうつもりで書きました。




タグ:電子書籍
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二章 実技編 2 [正しい本の読み方]




 2 初歩の二歩:対話的に読む1

 本はモノローグ的だと思われがちです。こういう言い方をすれば本は、「書き手が言いたいことを一方的に述べてくるもの」だからです。それは書き手のモノローグだという見方はできます。語り口がどういうものであっても。
 読み手もまた、本に対して独り言しか持つことは出来ません。紙に印刷された本は、もう形を変えることはありません。読み手が何をどう思ったにしても、それに合わせて変化してくれることはない。だから読み手の感想はモノローグになるほかない。
 書き手にしたって同じです。どんな感想を持たれたにしろ、それに合わせて先の話を変えることはもう出来ない。だから「一方的に述べるだけ」にしかしようがない。
 本とはつまり、「一方通行が二本ある状況」の上に成り立っているのかも知れません。

 むしろ客観的事実としてはそういうものでしかありませんが、読書はダイアローグ的に行うことができます。また、そうすべきものです。
 本に限らず、映画でも音楽でも演劇でもマンガでもゲームでも、絵画でも彫刻でも、芸能なり芸術なりを正しく鑑賞するとき、この「対話的な鑑賞」が必要です。そうでなければ、作品を理解することが出来ないからです。

 *

 書き手の意図どおりに読むのが読書だと、これまで話してきました。ゆえに書き手の意図が何かを考え、想像することが必要だと。読書で必要なのはなによりこの「想像力」だという話をこのまえしましたが、ではこの想像力を鍛えるにはどうするかというと、コミュニケーションの力をつけることです。
 ただそれは、社交性/社交術を身につけろとか、そういう意味じゃないので、人付き合いが苦手とか、おれはオタなんだよなあとか、そういう人も安心してください。というより実際、社交性だの社交術だのを覚えるのはむしろ、人からコミュニケーションの力を奪うことになるし、想像力のない人間を育てるだけだったりするので、そんなもんに付き合う必要はかけらもありません。
 読書に必要なコミュニケーションの力をつけるとは要は、「書き手と話をするにように、本の内容を理解していく。おしゃべりするように了解しあっていく」──そういう読み方を通して本や作者とのコミュニケーションの力をつけていく、というものです。
 というわけで、具体的な実技にまいりましょう。そのコミュニケーションの基本です。


 例えば試しに、本を読んでいて分からない箇所があったら「よく分かんないんですけどー」と言ってみてください。べつに声に出す必要はありませんが、ともかく分かんなかったら「分かんないんですけどー」と頭の中でいってみる。
 ここでの注意は、「よく分からないなあ…」じゃダメってことです。これだとモノローグになっちゃうからですね。ここはばしっとダイアローグ体で「分からないんですけど」と問いかけてみる。
 それからはっきり発音しないとダメです、頭の中でも。「(なんかよくわかんないんですけど?)」みたいな話し方もやっぱモノローグ体の亜流です。作者が目の前にいると思って「よく分かんないんですけど、これってどういうことでしょうか?」とはっきり発音する。実際に相手に問いかける声量で。
 言い換えれば、「自分はここでこういうことを作者さんに聞いた(なのでその答えを待っているのが自分だ)」と記憶に残る聞き方をしないとダメだってことですね。一人称小説の主人公みたく、「私はここで、『よく分かんないんですけどー』と作者に聞いた」と書けるくらい、ちゃんと言う。てかもう本に書いちゃっていいです。

 ま、こういうことをするのを嫌う人も多いとは思いますが、本の余白にはどんどんメモを入れましょう。おれが持ってる本なんかみんなメモだらけです。読書のときにはシャーペンかボールペンが無いと落ち着きません。そこらへんのメモの仕方もそのうち教えますが、本をきれいにしておきたい人は記憶力を鍛えてください。それがイヤならもう書いちゃいます。最初は抵抗があるかも知れませんが、やってるうちに慣れます。
 それから「私は図書館で本を借りることが多いから、メモなんか出来ない」という人。ま、経済的に難しい場合は仕方ありませんが、本はなるべく自分で買って、自分のものとして手元に置いておきましょう。灰谷健次郎さんはこういう言い方をしています。「家は借りて住め、本は買って読め」。本から得たいものがあるなら、本は自分のものにしといたほうがいいし、つまり自分の思い通りの使い方ができる相手にしておくべきです。

 話を戻して、記憶力に自信のない人は「よく分かんないんですけどー」をもう本に書いちゃう。「これこれこういう意味ですか? それともああいう意味ですか?」まで書けちゃうなら上出来です。
 ちなみに、メモのよさとは、「書く」という行為によって視覚的かつ体験的に記憶に残すことができる、点です。単に頭の中の音声として「よく分かんないですけどー」があるのと、実際に手先を動かして書いてみて「ここが分からない」と意識するのとではぜんぜん違います。そっちのほうがばしっと記憶に残りやすいし、ほとんどメモなんて必要ないくらいしっかり覚えられる効果もありますな(それじゃメモの意味ないじゃんか…、ですが、本来の目的は達成できてんだからいいんです)。

 *

 本を読むというのは、疑問につぐ疑問を持つということでもあります。そもそも、最初にページを開くときには、「この本はどういう内容なんだろう? どんな物語になっている小説なんだろう?(わくわく)」がまずあります。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」、と一行目に書いてあったら、「この猫が何をするんだろう?」「なんで名前が無いんだろう?」「この一行目はどういう意味なんだろう? ここからどういう話が始まるんだろう?」、そういう疑問を次々に持ちながら(そしてその疑問=「答えを知りたい!」という欲求をエンジンにしながら)読書は進むものです。
 なので、
「これってどういうことだろう? こういうことだろうか?」
「こう読んでいいんだろうか? 作者さんはこう思って書いてるんだろうか?」
「こう読んだけど、あってんのか?」
 ばっかりなのが実は読書でもあるわけです。ゆえに対話的な読書のまず最初は、「疑問を感じたときに、実際に作者に聞く」になるわけですね。

「よく分かんないんですけどー」

「これってどういうことでしょう? こういうことでしょうか?」
「こう読んでいいんでしょうか? 作者さんはこう思って書いたのですか?」
「こう読みましたけど、これであってますか?」
 そういう風にダイアローグ体にして、直接聞いていく。「こういうことなのかなあ」のモノローグじゃダメ。「(こういうことなんですか?)」「(なんかよく分かんないんですけど? www)」みたいのもダメ。はっきり書き手に聞く。そういう疑問の持ち方をする。


 そうすると、ここが肝腎なんですが、ちゃんとできた本ならそのうち、「それってこういうことなんですよ」と教えてくれます。これはぜったいそうです。
 本を読みながら、作者はこういうことを考えてるんじゃないか? と思ったら「これであってます?」と聞く。そうするとたいてい「そうです/ちがいます」と答えてくれます。これもちゃんとできてる本なら、ぜったい。


 よほどあなたの疑問が的外れじゃない限り、本は必ずこたえてくれます。これが「本」との対話です。コミュニケーション、その基本。

 ちなみに余計な話ですが、今おれが話しているのは「正しい『本の読み方』」ですが、これは「『正しい本』の読み方」と受けとってもらってもぜんぜん構いません。
「正しい本の見分け方」といったほうが分かると思いますが、やっぱり世間には、「きちんと作られている本」と「そうじゃない本」があるんです。でもって、その「きちんと作られてる本=正しい本」をどうやって見分けるかというと、「よく分かんないんですけどー」「これであってます?」と聞いて、正解を教えてくれるのが「きちんと作られている本」です。
 ただしここには、「よく分からないんですけど、これって分からないのであってますか?」と聞いて「そこは分からなくていいんです。正解です」「じゃあ分かってください。こっから先はあなたの問題なんです。あなたが自分で考えて正解を出す。だからあなたに正解がまだないなら、その『分からない』はあってます。正解です」という、ちょっとレベルの上がった問答も含まれますけどもね。
 いずれにしろ、「分かんないんですけどー」と聞いても正解を教えてくれない、何もこたえてくれない、そういうのは「正しくない本=ちゃんと作ってない本」なんです。べつに「まちがった本」とまではいわないですけどね。ていうか、まちがった本というのは世の中にはないでしょうが。

 *

 本はもう活字になって動かない表現です。なので、そんなもんとどうやっておしゃべりするんだと最初は思うでしょう。対話的な読書の初心者のうちは、的外れな疑問を持つことも多いし、数ある本の中には、残念にもちゃんと作ってない本だってあるからです。
 それでも対話を心がけて、ダイアローグ体で本に問いかけていれば、そう間を置かず「なるほど対話的だ」と実感できるようになります。
 そして話したように、そんな対話的な関係をもつべきは本に限りません。文化を鑑賞する――平たくいえば楽しむとは、一方的に送り手の表現を受け入れることではないし、一方通行が二本あるようなものでもありません。文化をほんとうに楽しむとは、対話的な関係をもてるようになったところから始まります。そこからほんとの交流が始まるし、ほんとの文化の享受が始まる。
 だから、現実の人間関係と同じように、分からないことがあったらどんどん聞いて、相手への理解を深めていくのが大事なんですね。「文は人なり」てやつです。

(ちなみにその点で本のいいところは、あれこれどんどん聞いても「イヤな顔をされない」とこですわね。相手が人の場合と違って。「なにこいつバカじゃないの?」みたいな反応はぜったい返ってこない。ゆえに(周りには誰もいないのに、こっそり)見栄を張る必要もない。だから安心して、どんどん(アホな)疑問をぶつけましょう。「こんな疑問を持っちゃう自分は恥ずかしいかもなあ」なんて思う必要はぜんぜん無いんです。どこかの文学理論や現国で教わった本の読み方──つまり「本との社交術」を覚えて相手を分かった気になっているうちは、本とのコミュニケーションはできません。読書というのは、本と読み手の一対一の関係構築だし、その一対一を通して書き手/作品を理解するという限定的な営為なんですね。大事なのは、「その本なり作者なりを理解するために、自分自身が何に/どこに疑問を持ったか?」なんです──だからそのためにも記憶/メモを残しましょう)。




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