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コラム1 「本は自分なりに読むもの」 [正しい本の読み方]




 この文書のまえがきで、実はおれはすごく重大な発言をしました。まああのまえがきでの発言はどれも重大なのですが(と自分で言ってりゃ世話ないですが)、「自分なりに読むのが本だ」とは実際は「人は本を自分なりにしか読めない」が正しい、というくだりです。
 ページでいうと8ページですね。真ん中くらいから後ろのほう、「人は、小説を、自分なりにしか読めない」という部分までですが、実はそのまえがきでは、ここらへんにまつわる話題はぜんぶ飛ばしました。そのことを話し始めると終わらないほど長くなるからですが(ゆえに『読書入門+』の趣旨から逸れてしまうからですが)、こいつを今の連載に合わせてちょっとやってみましょう。

「本は自分なりに読めばいい」「誰かに『こう読みなさい』といわれるようなもんじゃない」「自分なりの読み方で、自分なりに楽しむ。それが読書」
 こういう考え方(もちろんそれらは「ひとつの考え方」でしかありません)は、自由で開放的な印象があります。
 けども、
「人は本を自分なりにしか読めない」
 という言い方になると、なんだか窮屈で不自由な印象になります。

 もちろん、このふたつは同じことをいっています。
 そして、主観的な希望としては前者の「考え方」のほうが清々しいにしても、客観的な現実としては、後者の「認識」のほうが否応なく正しいわけです。
 人は本を、自分なりにしか読めない。

 人は本を自分なりにしか読めない。誰かに「こう読みなさい」といわれても、結局は自分なりにしか読めないし、読解できない。それはそれで本人にしてみりゃ楽しいかも知れないけど、でもそれは、本人にしか通じない楽しさでしかない。
 人は、ぜったいに、「自分」という枠の外に出ることはできない。

 だからおれは、「本は自分なりに読めばいいし、自分なりに楽しめばいいんだ。どういう読み方をしようが、それが自分の読み方なんだから、誰かにとやかくいわれるようなものじゃないんだ」といった話し方/考え方をする人に、不安をよく感じるし、時々本気でこわい、と感じます。そういう話し方/考え方をする人とは付き合えない、と。

 自分は自分でしかない、という事実は、不安定な気分を生むものだし、時々、何をどうしてよいのか分からないような、恐慌状態におちいるような事実です。
 こんなにこわい思いをするくらいなら、自分は自分じゃなくていい、と、そういうときには思います。
 2ページでいいから、同じ読み方をしている人がいてほしい。200ページぜんぶなんていわない。20ページならもう親友みたいなもの。

 たぶん人は「自分なり」という枠の外に出ることはできません。けども、その「自分」の幅を広げていくことだけはできると信じています。そうして、2ページを4ページに、20ページを40ページにしていくことはできる。
 1冊を2冊に、2冊を4冊に広げていくことはできるし、1ジャンルしか読めなかった自分に、もう1ジャンル増やすことはできる。

 そういう本の読み方を教えてくれたのは、おれの場合、高源さんなんだったりします。




一章 基礎編 2 [正しい本の読み方]




 2 書いてあることをそのまま読む人の読み方

 高橋源一郎の書評集はけっこういろいろありますが、たぶんこれが分かりやすいだろうと思えるのは、朝日新聞出版から出ていた書評集です。週刊朝日の連載だったのか、よく覚えていませんが、何冊か続きで出ていました。『もっとも危険な読書』『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』とかですが、ま、まだ手に入るのか分かりませんが。
 ともあれ、それらを読んでいて分かるのは、なんでもかんでも読むのが高橋さんだ、ということです。それ以前もそれ以後も、これは変わりません。

 ともかくジャンルに関係なく本を読む。彼は文学者なので、やっぱり文学中心にはなりますが、文学たって小項目は多岐にわたるわけです。日本文学と海外文学、そういう分け方がたとえばある。その海外文学には英文学・米文学・仏文学・独文学・露文学・伊文学…と挙げるとキリがないのでよします。
 趣向の違いもあります。純だったり娯楽だったりポップだったりエッセイだったり日記だったり女流だったり男流だったり子ども向けだったり大人向けだったり両方向けだったりと、これも挙げるとキリがないのでよしましょう。
 その「キリがないもの」を「キリがないまま」読んで読んで読んでいく、それが高橋書評本の体裁だし特徴です。(生活もたぶんそうでしょう)。

 ただもちろん、大事なのは「読んで読んで読んでいく」そちらではありません。「読んで読んで読む人の書評集がそれら」だというそっちです。

 書評というのは、評論と同時に解説で、また同時に紹介です。特にその朝日の書評集は、解説と紹介に比重を置いていたとこが強かったのですが、じゃあこれってどういうことでしょうか。
 もちろん、あらゆるジャンルの文学を解説・紹介できるのが高橋源一郎だ、ということです。すごい人だしすごいことです。じゃあどうすればそんなことができるのか、です。
 それが「書いてあることをそのまま読む」なんですね。書いてあることをそのまま読むしてれば、自然にそういうことができるようになる。
 てことで、もうちょい具体的にまいりましょう。

 *

 確かに高橋さんは、独自の思想なり文学理論なり文学観なりを持っています。ていうか持ちすぎている人なんですが、この人の特徴は、解説・紹介する本に対して、自分の文学観をぜったい応用しないところです。
 彼はオリジナル小説を書くときには、本人の思想や理論から書きます。それはとても独特なもので、「風変わり」というレベルを超えた「ものすごくヘンな小説」です。でもそれは、彼にしてみれば「今現在小説を発表するとしたら、こういうもの以外にありえない」という確信の下で書いているものです。
 けれど、それほど独特で強固な(というか頑固な)文学観を持ちながら、ひとの小説/文章を読むときには、その文学観を応用しないんです。本人に独特な思想や理論で、ひとの本を測ることはしない。
「まあ! なんて民主的な人なのかしらん!」
 と感動する人もいるかも知れませんが、なことは今はどうでもいいんです。大事なのはここからで、単に自分の文学観でひとの本を測らないどころか、です。
 この本のツボはどこか、をとても適切に解説し紹介してくれる。なんでそんなことまでできるのか?
 だって考えてください。そこまで強固な文学観を持っている人なら、ひとの本は、
「おれの文学観に合わないから、読まない」
「読むには読むけど、おれの文学観とは合わないから、とうてい理解できない/理解する気はない」「理解できない/する気がないんだから、解説も紹介もムリ」
 になるのがふつうです。でしょ?
「自分は自分、他人は他人。自分が考えてることならいくらでも話せるけど、他人が何を考えてるかなんて分かるわけない」。
 でもそれでもひとの本のことが分かって、解説も紹介もできちゃうのが高橋さんで、やっぱりこれってすごいことなわけですが、なんでそんなことまでできちゃうのか?

 自分の文学観は「いったん置いて」、その本に書いてあることは何か、その本がいおうとしてるのは何か、その本の特徴はどういうものか──そちらを中心に読書をしているからです。
 言い換えれば、
 マルケスを読むときにはマルケスをぞんぶんに楽しめるモードで読んでいるし、舞城王太郎を読むときには彼の言葉遣いや文の壊れぶりをもっとも了解できるモードで読んでいて、氷室冴子を読むときには彼女の愉快な世界観をともに遊覧できるモードで読んでいる、ということです。
 じゃあその「モードの変換」は意図的に行われているのかといえば、そんなことはないでしょう。たぶん誰でもそうなように、バラエティ番組を見てるときはバラエティなモードに入ってるものだし、ニュースになれば背筋を伸ばすし、ジャニーズが出てくれば「○○くんがかっこいい」「このコはかわいい」といちいち言いたくなるものです。
 主体が「自分」ではなく「対象」にあるとはそういうもので、これを読書でも実践してるのが高橋さんなんですね。それが「書いてあることをそのまま読む」なんだと。

 *

 彼はかつて「古井由吉を読むように新井素子を読んでも意味がない」といった内容のことを話したことがあります。「古井由吉をよしとするような価値基準で新井素子をダメだとすることは無意味だ」という意味です。
 おれの記事の文脈で話せば、読書に際し、本人の文学観や先入観や思い込み、そういうものはぜんぶ邪魔なもので、むしろ「その本」じたいの面白味を見失いかねない危険なものなんだってことですね。

 ゆえにそういう「邪魔」を省いてしまえば、「なんで新井素子なんかを面白がる連中がいるんだろう。古井由吉のほうがよっぽど奥深くて切実な内容じゃないか」という見方は無くなるわけです。もちろん逆もそうです。「なんで古井由吉みたいな面倒な話を面白がるんだろう。新井さんみたいな世界の見方のほうがよっぽど楽しくて優しいのに」も無くなる。
 その結果、古井由吉も新井素子も楽しめるようになる。理解できるようになる。

「書いてあることをそのまま読む」とは、「書いてあることをそのまま受けとめることで、その本に固有の面白味が何かを探る・知る」ということなんですね。
 その本が伝えたがっている面白いこと、つらいこと、希望的なこと、失望的なこと、大事なこと、あんま大事じゃないこと、それらは本によって違うし、ジャンルによって違うし、作家によって違うわけです──でもそれを読まなきゃ読書になんないよ、そう言ってるのが高橋式読書法なんだってことです。




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