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営業 目次の紹介。こういう本です。 [書店員のための読書入門+]




まえがき
序一 調べないコ
序二 考えない人
 今回のデモ版です。知識的であることの意義。または、「実際のとこ『知識的である』とはどういうことなのか?」→「ああやっぱ『知識的』は大事かもなあ」。


第一部 「聖職者」を読む
 新人賞受賞作「聖職者」の新しさと、これまでのミステリー/エンターテイメントのありよう。「ひえーっ」「ぐえーっ」だけではない「聖職者」の後味の悪さの研究。

一章 「聖職者」の凄味とミステリーの栄養
二章 「聖職者」は『完全自殺マニュアル』に似てる
三章 歴史という大きなふところ


第二部 主人公を読む
「この主人公は不自然である」──「聖職者」の主人公・森口悠子のリアル/アンリアルの解説。あるはずだった『告白』の姿と、「なぜ優(い)優(い)等(い)等(い)生(コ)生(コ)をやってるのはつまんないのか」。
四章 『告白』への注文
五章 森口と被害者
六章 森口の受け身
七章 『告白』のリアリティ──優等生の孤独


第三部 私たちを読む
 学校とは何か? 優等生とは? 学校の暴力とはなんだったのか? 『告白』読書の背景を知る、「私たち」の基礎知識。優(い)優(い)等(い)等(い)生(コ)生(コ)をやってるのがつまんないのは「自分」が無視されてるからです。
八章 優等生とはこういうもの
九章 学校の暴力と学校の暴力がある学校
十章 優等生と暴力
十一章 ふたたび、優等生とはこういうもの


第四部 『告白』を読む
『告白』のしょうもなさ──本屋大賞だいじょうぶ? 付録:だとしても大丈夫。書店員と優等生のこれから。
十二章 優等生のなれのはて
十三章 読書という文化
十四章 つよい人

 *

 実はこれまでこのブログ、もとい暫定公式HPでですね、記事を書くにあたって、もといコンテンツを更新するにあたってですね、「うーむっ、どう話せばいいのか(=営業すればいいのか)? だってまだ本文は読んでもらってないもんなあ。こんなの『読書入門+(デモ版)』にどう関係あるんだとか思われたら弱っちゃうよなあ…」と逡巡しながらの執筆だったんです。
 それでそう、目次を載せるとちょっとは分かりやすくなるんじゃないかと。
 てかま、そのほうがおれが話しやすくなるんですけどね。むしろ当然どっちかというとぜったい。





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営業 「勧める」ための「読み方」 [書店員のための読書入門+]




 やっぱこれは客観性でしょう。もうぜったい、どこまでも。

 本に対する客観性。その本がどういう本かを客観的に見つめられる見識、客観的な善し悪しを判断する蓄積なりセンス。そういうもんです。

 今回のデモ版でもふれたように、『告白』はミステリーとしてはつくりが粗い作品です。
 おまけにミステリーとしては致命的な欠陥すらもってる。もうほとんど「ミステリー」というジャンルに泥を塗るような。
(ま、これは気づかなかった人も多かったとは思いますが──彼女の方法じゃ直樹も修哉もまずほとんどHIVには感染しないという)。

 こういう本に「ミステリーの傑作!」とか「ミステリー界 期待の大型新人!」みたいなPOPをつけちゃうのはまずいわけですね。
 ま、当時そういうPOPをつけてたら、ですが。客観的な紹介になってない。

 実際おれはこの小説は、ミステリーとしての面白味は副次的な(人によってはほとんど関係ないくらいの)もので、もっとべつの理由からウケたと思っています。
 そこらへんの話はデモ版には出てこないですけど──本文に入ってからですけど、けどどうもその、ウケた理由のほんとのとこが語られてない印象があります。
 今回の話題でいえば、「書店員が売りたい」「勧めたい」理由として流通していない/流通しなかった、というようなことです。

 敬称なのか蔑称なのか、「イヤミス」なる肩書きをもらった『告白』は、つまりは「ミステリー」として認められたということでしょう。けども、ほんとにそれでこの本を読んだことになるのかと。

「ミステリーとしては三流、人によっては『こんなのミステリーじゃない』でも結構。だとしても、○○○としては読むに値する本だ」
 そういう紹介があってよかったと思います。この「○○○」に入る、客観的なカテゴライズを自力でしてほしかったですよね。

(けどまあそれもむべなるかな、とも思ったので書いたのが『読書入門+』でもあります。この小説のツボって、読み手を主観的/個人的にさせる作用があるんですよね。
 つまり「この感想はあたしの個人的なものだし、主観によるものだなあ」と読み手に思わせちゃうから、読み手本人はうまく外に出せなくなっちゃう。また、そういった感想を受け入れられるだけの下地も世間に育っていない。そういうものも『告白』を客観的に紹介させない一因になってる。
 なので読み手の内的な語彙と、読み手をとりかこむ外的環境を整えてあげないとなあ、と思ったあたしってば親切。自分でいってりゃ世話ないですが、そういう本でもあります)。





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営業 校正と批評の違い [書店員のための読書入門+]




『告白』にこういう表現があります。文庫でいうと134ページですけども、

   三月三十×日

 これヘンですよね。だって「×」のとこに入るのは「一」以外にないんだから。伏字にする必要がない。
 こういうとこで「これヘンですけど、おーけー?」と聞く、それが校正ですね。

 ただまあこの伏字、というか「この本(=『告白』第三章)の日付の表現」はそういう風に、●月●日の「●日」のほうは伏せる「×」で統一してあります。なので「三十一日」だとしても、伏せておかないとかえって不自然になる、統一感を欠く、という事情もありましょう。
 そういう事情も考えられるので、はっきり「×はヘン!」とは言わずに「ヘンですけどおーけー?」と、疑問だしのレベルにとどめるのも校正でしょうね。
 少なくともおれがこの原稿を読んだらそんな風に、疑問だしレベルにします。朱は入れません。「ぜったいこう直すべきだ」という強気の態度はとらないで、あとは著者さん/編集さんサイドの問題というカタチにして、つまり逃げます。

 とはいえ、同書を読んでる人なら分かると思いますが、直樹の母親の日記によるこの章は、日付を伏字にする必要はありません。まったく。「三月三十一日」「七月十五日」など、「架空の日付を設定してしまってまったく問題ない」ものです。
 だってたとえば、ノンフィクションとかで「その日付がばれるとプライバシー侵害になるから避けたい」「ある固有の社会的事件なりに言及してるような内容になるのを避けたい」とか(ま、たとえば9/11とか3/11とか1/17とか、そういう日付のことですな)、そうじゃないわけです。
 小説内部の、ある固有の日付への言及というカタチを避けたいとか、そういうもんでもない(そもそもこの小説では、事件なり事故なり犯罪なりが起こった具体的な日付はすべて明らかにされていません)。

 ですので「ヘンだけどおーけー?」のあとに、「そもそも伏字にする必要はないのでは?(この章の日付全般)」とおれなら書き足します。これも校正といえば校正だと思います。
 だって「校正さん」と呼ばれるときのあたしは、そういう風にシゴトしてきましたから(あるイミ無根拠)。

 ここで、「この章の日付、伏字にする必要あるかなあ? だって『三十×日』はヘンだよねえ?」と著者さんに相談する、これは校正でも批評でもなく「編集」てことになると思います。

 されそれで、これまでの話で分かるのは、

・ムダに「謎めいた表現」を好むのが湊かなえである。
・それで読者の失笑を買ったりする(こともある。気づかない人は気づかないでしょうけどね)。
・(そんな風に校正者と編集者のシゴトをふやす作家でもあるけれど、そういうのは内部事情なので読み手には関係ありません)。

 ということですが、これが批評ですよね。


 たぶん『読書入門+』は、評論なのか教育書なのか、個人的な感想文なのか、とっても分かりづらいものだと思いますけど(文中でもおれは、そのみっつ+を併行して使ってますしね)、こういう風にちょっとずつ解体していきます。

「考える」してくださいね。この本に興味を持った方。「対話的」をやってください。
「ここは『校正』的な観点から書いてある、ここからは『批評』になってる…」、とかそういう感じ。




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