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二章 実技編 7/まとめ [正しい本の読み方]



 7 初歩の七歩:対話的に読む 補3

「どうしても分かんないとこをどう理解するか」を前節では話しましたが、これでひとまずみなさんは、一冊の本を読めるところまで行ったことになります。なので次はこれですね。本当に読めているかを確認する。


③自分の理解度を自分で測る方法

 ある本をちゃんと読めているか、客観的に自分が理解できているかどうかを知る方法はいくつかありますが、まず有効なのはこれです。

・他人に説明してみる

 本に限りませんが、ある物事なり文化的表現なりへの理解を客観的に知りたければ、他人にその本のことを話してみるのがいちばんです。もちろん感想を話すのじゃありません。その本がどういう本かを説明するんです。要するに解説ですね。
 文芸だったら、どういうストーリーでテーマは何か、どういう人物が出てくるか、彼らの性格や特徴はどういうものか──まあそういう、「解説」に書いてあるようなことを他人に説明する。
 ちなみにべつに、「個人的な感想なんか話すな!」と言ってるわけじゃありません。話したければ話せばいいし、たぶん話したいだろうから話したほうがいいんですが、その前に、「きちんとした紹介をしてみましょう」ということです。
 きちんと紹介して、それから「…ていう本だったんだけど、あたしはね、そのラストがもう、もうもうもう、がーんっなのだー!」とかまあ、そういう感情爆発自分しだいをやんなさいね、てことです。
 ともあれ紹介は口頭でしてもいいですし、書いてみてもいいですが、その両方をやったほうが効果的です。

 口頭で説明すると、たぶん相手はいろいろ質問してきます。質問をされるということは、自分の話に分かりづらい箇所、説明の足りていない箇所があったということです。なのでその後はそれを参考にする。
 口頭での説明とは違い、文書にしてみると、自分の話が形として残りますから、あとで自分で確認することができます。「この話で通じるかな、なんか足りないとこはないかな」みたいにチェックしながら、足りないところも補える。それを誰かに読んでもらって質問されたら、そこが足りないということなのだから、書き加えることもできます。けれど、たぶんそこでも「足りないとこのこと」は口で説明することになるのだから、口頭での説明と同じものになるでしょう。
「喋る」と「書く」はそういう風に連携/補完するもので、「喋る」という自由度の高いやりとりと、自由度は低いけど客観的に話をまとめやすく修正もできる「書く」を交互に行いながら、自分自身の理解度を測っていくわけですね。
 これが出来るようになったら、次はこれです。

・他人に教える

 ある物事を自分がきちんと理解できているかどうかは、「それを他人に教えることが出来るかどうか」でもっとも客観的に知ることが出来ます。つまり教育ができるかどうかです。
「それは説明できるかどうかと同じじゃないか?」と思うかも知れませんが、場合によってはそうです。例えばその説明の相手が、自分より低レベルな相手ならその「説明」も「教育」にはなります。
 つまり大事なのは「自分より程度の低い人」「自分と違う人」「自分に似てない人」に説明し、理解させられるかどうかだというそこです。

 友達うちで、いつもの話し方で、「こないだ読んだ湊かなえの『告白』ってすごい話でさー」と説明する。同じ調子で友達も質問してくる。この関係で相手の理解を呼ぶ「説明」はちょっと頑張れば誰にでもできます。なぜ出来るかというと、「往々に友達とは、価値観が共有されているから」です。(ていうか、似たような価値観を持ってるからこそ「友達」になってるわけですけどね)。
 けれど、価値観なり知能の程度なり質なり、ボキャブラリーなり文化的趣味なりが異なっている相手に、何かを説明し理解してもらうというのはものすごく難しいんだったりします。それが「教育」ならもっとです。

「知っている者が知らない者に教える」のが教育ですが、つまり教える自分は上だし、教えられる相手は下です。この関係で最初に必要なのはなんだか分かるでしょうか。

・相手のレベルまで自分を落とす

 というものなんですね。相手がどの程度のレベルにいるかを見定め、そのレベルに合わせないと相手は理解できるわけありません。だから自分のほうから相手のレベルに合わせる。もちろんそのためには、「自分より程度が低い人というのは、どのような内容を持っているのか(または持っていないのか)」が分からないとなりませんから、そういう想像力なり分析力も必要になります。
 そうして「教育的に解説」をしてみれば、たぶん初心者の人はみんな気がつくと思います。「自分の話がまったく通じない」ことに。

 友達うちでは十分に通じているのに、でも相手が変わったら何も通じない。価値観を共有していない相手には、何をどう説明すればよいのか見当もつかない。そういうことは往々にあります。これが教育ならもっとです。つまり「相手が知らないことを、知っているこちらが教える」をやろうという場面ではもっとだということです。けれど、これが出来ないなら、実はあなたはその本を客観的に理解できていないんです。
 客観的な理解とはその通り、「誰から見てもそうだと思われる理解の仕方ができている」というものです。だから友達はもちろん、親の世代の誰かでも、妹や弟の世代の誰かでも、他県の人でも外国人でも、大工のおにーちゃんでも水商売のおねーさんでもプログラマーでも社長秘書でも、必ず通じる話を出来なければ、それは「客観的に理解している」にならないわけです。

 *

 この「正しい本の読み方」や『読書入門+』はまんま教育書ですから違和感ないと思いますが、実はおれは、ふだんからこういう話し方をよくします。つまり教育的な話し方ですが、今風にいえば上から目線でこんこんと説明し理解を促す話し方/文を好みます。なぜそうかというと、「相手よりまず自分自身に理解を促すため」だったりします。
 ある本について誰かに教える以上、自分はそれを理解していないとなりません。自分が理解していないものは他人に教えることは出来ません。そんなの当然です。自分がそれを教えられないなら、自分はそれを理解していないことになります。逆に、自分がそれを教えられるなら、自分はそれを理解しているということです。
 あえて教育的に話すとき、自分は必ずそれを理解しないとならない立場に立ちます。だからおれはよく勉強します。調べたり考えたりします。ほっとくとそういうことを何もしないぐーたらといえばそれだけですが、同じような性質の人はこれは効きますよ。「最初っから教育的な話し方をしてしまう」。
 それで相手がちゃんと理解し、学習してくれたなら、あなたの理解は客観的です。

 まずは、「友達にその本を紹介する」から始めましょう。そうして徐々に、「ふだんの自分の話し方じゃ通じない人」「自分たちに似ていない人」向けの話に広げていく。ボキャブラリーを増やし、違う価値観を受けいれ、それでもその相手に自分が読んだ本のことを紹介できるようになる。そういう話し方をマスターしていく。
 自分ひとりにしか通じない読み方をしているうちは、その本のことを読めていません。その本のほんとうの姿を分かっていない。他人に共有されて、はじめてあなたの感想や解釈は「感想」になり「解釈」になるんです。あなたの理解はちゃんとした「理解」になる。
 そして、あなたの理解を共有してくれるべき他人の、究極が誰かといったら、それは書き手さんです。文学賞の選考委員でも高名な書評家でもないし、神様でも仏様でも、お天道様でも宇宙でも真理でもありません。「その読み方であってます。そのつもりで書きました」、そう書き手に言ってもらって、はじめて読書は終わるんです。





 まとめ

 正しい本の読み方についてまとめましょう。まず基本中の基本はこれです。

●書いてあることをそのまま読む
 書いてあることをそのまま読むとは、つまりは「書き手の意図どおりに読む」ということです。
 その本や作者がほんとうに言っていること、言いたがってることを知ることだし、その本や作者がほんとうに持っているものは何かを知る。
 つまり、本をすっぱだかにする読み方が「書いてあることをそのまま読む」。
 この読書で、主役は本、読み手は本に従う立場。ゆえにもっともいけない読み方は「自分なりの読み方」「自分なりの楽しみ方」といったもの。先入観や思い込みも邪魔。

 この基本中の基本の考え方、スタンス、読み方を実行するのに必要なのはこれです。

●対話的に読む
 書き手の意図どおりに読むとは、「書き手はどういうつもりでこの言葉/文/段落/章/小説を書いたんだろう」と想像しながら読むということ。
「どういうつもりか」を知るには、直接本に聞くのが当然てっとりばやい。つまり本とコミュニケーションしながら読めばよいということ。ふだんどおりの人間関係みたいにおしゃべりしながら読書をする
 相手の話にあわせて相槌を打ったり、合いの手を入れる。疑問があったら聞けばいいし、よく分からなかったら聞き返せばいい、それでも分からないことは他人の手を借りる。そんだけ。
 読書がすんだら友達に話す。「こないだこういう本読んでさー」。これも日常的なことだけど、そこでちゃんと紹介できればあなたは本が読めてます。

 話してしまえばこれだけのことなんですね。人間関係とは常に「相手を理解する」の繰り返しですが、だから同じことを本にもやればいいと。
 本だからって特別なものではないし、また、特殊なものでもありません。「文は人なり」。文章/文書/本とは要するに人間なんだ、ということです。
 そして、気づいていた人も多かったでしょうが、今回紹介してきた「本の読み方」とは、実はふだんからみなさんやっていることです。ことに実技編で紹介したのはどれもそうですが、誰だって読書の最中に同じことをやっている。
 買ってきた本の最初のページをめくるときは誰だって「どんなことが書いてあるんだろう、どんな話をこの作家さんはしてくれるんだろう」と思います。描写があれば自然とそのシーン/絵柄を思い浮かべるし、疑問があれば「これどういうことだ?」とも呟くし、文のあいまあいまで「なるほどね」「そうきたか」と合いの手を入れるのもふつうです。脱線はしょっちゅうだし、その脱線の中には「やばい、この単語知らない」で辞書を引く時間も入るし、「どこをどう読んでも意味不明な文を何度も何度も読み返している」もふつうにありましょう。
 そして何より読書を楽しんでいるときは、本こそ「自分を楽しませてくれる主体」で、その導きに従っているこちらは「客体/従体」なんです。(にもかかわらず「自分なりに読むのが読書」「自分なりに楽しむのが本」などという風潮に流されて、本との関係が分かりづらくなってしまってるのが今なわけですが)。

 読書の最中には誰だって同じことをしているし、つまりあなたはもう「正しい読書」の基本を我知らず行っている、わけです。
 では何がカズノはいいたかったのかというと、

・ふだんからしていることを、意識的に行ってみること
・それによって、自分は本との関係の当事者だと自覚すること

 が大事だということです。「我知らず」をよして「我知って」にしなさいと。そうして、当事者意識をちゃんと持てということです。
 だから「ふだんはモノローグ体で思っていることをダイアローグ体にしてみなさい」「疑問があったら声に出して質問しなさい」「辞書がどれだけ大切なパートナーかを実感をもって理解しなさい」などなど、そういう話し方をしてきました。あなたに固有の人間関係同様、その当事者である自覚を本に対しても持ちなさいと。
 友達や親や子どもや知り合いを理解するように、本も理解する。本をすっぱだかにして、恋人と愛しあうようにコミュニケーションする。その時間はとうぜん至福なわけです。
 だからそうそう、これも大事でした。

・自分もすっぱだかになる

 読書だからって気取っていてはダメです。それは単なる見栄っぱりの耳年増です。逆に、相手が幼稚だからってこっちも幼稚になったり、かえって大人ぶったりするのもダメ。それやるとロリコンになります。
 こっちもすっぱだかになって、対等に愛しあう。じゃないと恋愛なんてどこも面白くありません。言い換えると、その恋愛は恋愛の名を借りた主従ごっこです。要するにSMですね。

「対等」とはなんでしょうか。それは「上下関係にない関係」ということではありません。「上下関係がころころ入れ替わっていく関係」のことです。これはそのまま「対話」というものをイメージすれば分かります。
 対等で公平な関係でも、対話ではいつも、「語り手」が主導権を持ちます。「聞き手」は受動的で、彼の話を聞く立場です。彼が主であり、こちらは従です。彼の話がテーマであり、場の在り方や空気も決めています。
 けれど、彼の話を聞き終わったこちらは、彼の話に質問をしたり意見を述べたりします。つまりこんどはこちらが「語り手=主」になり、彼が「聞き手=従」になるということです。そこからの話の/場のテーマや空気を決めていくのはこちらです。
 そういう風に、主従/上下がころころ入れ替わっていく関係、ころころ入れ替わることが出来る自由な関係を「対等」と呼ぶんですね。
 一方的に上下ではなく、固定的に主従ではない。かといって、常に上にも下にもなれないまだるっこしい関係でもなく、リードすべき人間が相手に遠慮するばかりに何も進まない関係でもない。互いが時に主になり従になる、上にもなり下にもなる、こういう関係を「対等」と呼びます。

 だから読書では、本に対して、どんどん発言しろと言ってきました。読書は本が主で読み手が従ですが、あなたがリードすべき場面では、やはりあなたがリードすべきなんです。例えば批評家や、あまりに率直かつ正しいコドモのように。
 セックスのとき、リードするのは男性という常識はまだありますが、相手が童貞なら女性がリードしないとならないし、処女と童貞なら手探りで「都度々々の場面でのリーダー」になるほかないし、いい加減そういうことになれた男女なら、その駆け引きなりあうんの呼吸こそ楽しむシチュエーションにもなりましょう。この男女は、誰も対等です。
 そうして、本と「対等な」コミュニケーションを持ってください。すっぱだかになってください。

 ふだんだったらとうてい出来ない、アホな質問もどんどんしましょう。はすに構えてイヤミになったりする必要もありません──そうやって自分を守る必要もない。
 本は頑固で動きません。もう印刷されているからです。でもだから、本はぜったい待っていてくれる相手です。こちらが望めば必ず受け入れてくれるし、必ずいっしょに遊んでくれます。本は寛大で公平です。照れる必要もないし、恥ずかしがる必要もない、見栄をはる必要もありません。本を信じましょう。





 あとがき

 ここらへんまでが正しい本の読み方の基本です。基本ですが、あとはその繰り返しです。応用が入ったとしても基本は基本なのでそうです。
 ま、そのうち「正しい本の読み方 三章 必殺技編」というのもやろうと思っていますが、いつになるかは分かりません。それまでのあいだは、本でも読んで待っていてください。もちろん、この「基礎編」「実技編」を守りながら。

 ここまで話しておいてなんなのですが、結局のところ量なんですよね。なんでもそうですが、一定量をこなせば、おのずとその世界に通じている状態にはなるものです。
 けども、基本的なフォームすらマスターしていない人が、どれだけ練習や応用を重ねてもスポーツ上手にならないのと同じで、やっぱり読書にも「基本的なフォーム」というのがあるわけです。
 いくら音楽を聞いてもぜんぜん音楽が分かるようにならない人も、「音楽の聞き方を基本のところで間違えてるから」です。そして往々にそれは、「自分の聞きたいところしか聞かない」態度によっているもので、つまり彼の音楽観を乏しくしているのは例の「自分なり」というやつなんだと、そういうことなんですよね。

 今回はおれの師匠の高橋源一郎をよく引き合いに出しましたが、「センスのよい書評家のように、客観的に本を理解しながらもその人にしかできないような鋭い批評=本にまつわる有意義な理解とおしゃべり」をしたいと思う人は、まさにその高橋さんのように、自分なんてものはよそに置いて、「書いてあることをそのまま読む。その小説がどういう姿をしてるのか、作者は何をいいたいのか、自分はこの本/作者とどういうコミュニケーションができるのか、それだけに集中する」をしてみてください。
 そしたらいつか、(高源師匠のように)あなたにしか話せない本の話ができるようになるという、逆説的ですが、そういうものなんですね。
 だからこの「正しい本の読み方」の基本──基礎編・実技編を守って、とにかく読んで読んで読んでください。そうして待っててください。必殺技編。

 の前に、あとまあ、現実は現実でちゃんと受けとめて生きる、というのも案外「正しい読書」のためには必要でしょう。日常とか現実とか、世間とか社会とか、そういうものにきちんと関わりながら、読書の時間を持つこと。
 本好きの人はこれを怠りがちですので、注意してください。

 じゃまたね、そのうち。




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