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表現てのはこういうもの 補注4 自己表現の勘違い [文化あれこれ]




●自己表現の勘違い

 いつからか日本では「自己」が大事にされるようになりました。民主教育がようやく軌道に乗ったという背景もあるし、連動して、自己実現そこ大事とする文化的風潮の影響もありますが、ともかく誰でも「自分自分自分」です。
 ゆえに日常でも自己主張、自己表現はふつうになりました。とくべつ芸術的・芸能的ではない、日常のささいな生活の断面でも、ひとは自己主張したり自己表現したり、つまりは自らのオリジナリティをアピールするようになりました。もちろん学校も世間もそういった個の在り方をよしとし、積極的に行うよう促しています。
 ところで、そういった環境では往々に、こういう逆転が起こります。

・主張するに値しない自己は「自己」とは呼べない

 という逆転です。認識あるいは存在の逆転。

・表現するに値しない自己は「自己」とは呼べない
・実現するに値しない凡庸な人生など「自己実現」に値しない

 というのもそうです。そういう発想に誰もが陥ってしまう。

 たぶんこういう逆転劇がリアルに実感できるのは中高生くらいでしょうけどね。あるいは「中高生の頃を思い出したときのあたし/おれ」。今は「小」も入りましょうが、性への目覚めと同時に、自己の(性的)アピールが必要だと感じる、よってそこでは「アピールに値しない自分なんて自分じゃない」という認識(極度の焦燥を伴った)が起こる。
 こういうものに似通った「アピールに値しない自分なんて自分とは認めたくない。ていうか認めない。そんなの自分じゃない」という気持ちを、自己主張・自己表現・自己実現が奨励される環境は人に持たせるものです。

 ゆえにそこでは「主張し表現するに値する『自己像』をつくろう。そういう自己像を持とう。そうしてそれを主張しよう」という考え方をする人が増えます。つまり、本来の自分そっちのけで、仮象の自己像をつくりそっちを主張し表現する、という本末転倒が当たり前に起こる。
 もちろんここで問題なのは、「そういう仮象の自己像をつくっていることに、本人が気づいていない」場合です。


●自己の勘違い

 よく「ちゃんと自分を持ちましょう」と言う人がいます。教師や親がよく口にしますが、残念、この言葉は間違いです。「自分」というのは「持つ」ものではなく「ある」ものだからです。そして、良くも悪くも「あってしまう」ものだからです。
(cf. カズノpub.『読書入門+』所収、「hon-ijbun」。閲覧/DLはここ。うちの連載「正しい本の読み方」のまえがきとしてある文書ですが、つまり「本と自分の在り方、その関係」について述べたものですが、ここでの話題にも使い回せましょう)。

「自分」というそれが物理的に宇宙に存在するのか、内的世界に幻影として存在するのかは関係ありません。ともかく、どっちの場合でも(それ以外の場合でも)、あるものはあるんです。あってしまうんだからあってしまう。そしてそのようなものだから、「自分」とは(実は)自分にも選べないものなんです。
(だから「持て」といわれても「持ちようがない」)。

 ところで、「自分は自分でも選べない」とはこういう意味です。べつに文学的な(自己陶酔的な)意味合いではない。

 例えば人は、便意を選べません。排泄欲とは、持とうと思って持つ欲ではないからです。それは睡眠欲も食欲も同じです(性欲はちょっと違います)。
「自分」とは本来(または本質的に)「自分では選べない」ものなんです。そのように。

 もちろん、「自分でも選べる自分」というのはあります。自分の思いなり考えなり、生活や人生のスタイルなりは、「こうしよう」と思って変えることはできます。それすら実は人は選べない、選んでいると思っているのは錯覚で実際には「社会的構造によって」選ばされているだけだ──そういう考え方もありますが(しかもこの考え方はそれなりに正しいんですが)、そういう面倒な話は今は置きましょう。
 選ぼうと思って選べる自分は確かにあります。ではこれはどういうことでしょうか。

 もちろん、「選べる自分と選べない自分の、両方を合わせて自分は自分になっている」ということです。簡単なことですよね。

 それくらい簡単なこと、日常的なことなのに、けども、です。自己表現をしたがる人というのは、往々に「選べるほうの自分」ばかりを優先しがちです。「主張するに値する自分こそ『自己』だ」と思ってしまう人は、もはや完全に「選べるほうの自分」だけを自分だと思ってしまっています。
 やはりこれは不健康なことなんですね。だって「主張するに値しない、表現するに値しない、自分」だってやっぱり自分で、そもそもはそっちが自分なわけですからして。

 *

 例えば、セックスのときに避妊することがあります。セックスは生殖行為でもあるわけですが、その事実を無視/軽視し、快楽行為として捉える人間はみんなそうします。あるいは避妊せず妊娠した場合、堕胎するのも人間です。これはどういうことでしょうか。
 むろん、「そもそも生殖器官が備わっており、生殖行為を行うようになっているのが自分だ」という事実を無視/軽視しているということです。自分の一部を『自分』として認めていない。あるいは生殖活動を行う生き物としての自分、というのはセルフイメージに入れていない。

 進歩的なフェミニストはみな、堕胎は女性の権利だと主張します。そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れません。おれは法=政治に興味はないので、そこらへんはどっちでもいいんですが、ともあれ確実にいえることは、彼女にとって「女性器を持っている自分」とは、「その女性器を快楽のために使ってもいいし、生殖のために使ってもいい存在なのだ」と思っているということです。
 つまり「自分」とはそのように「選択的な問題」で、「選択できない問題など無い」という考え方をしている、ということですね。

 でもだから、こういった考え方は不健康なんです。こういう身勝手で青臭い考え方に影響されないよう注意してください。
 だって、おしっこしたくなる自分も、眠たくなる自分も、お腹がへる自分も、みんな自分なんですから。「選べない自分」てのはいるもんです。

「選べない自分」と「選べる自分」、両方合わせてセルフイメージをつくってください。けして文学的/自己陶酔的な「選べなさ」を担保にするものじゃなく。
「うんちやおしっこをするような自分」「生殖機能もそなわっている自分」も含めて、セルフイメージを作ってください。
 自己表現をするときは、そこから自己表現してください。そうでないとそれこそフェミニストのように、あまりにリアリティつまり説得力を欠いた表現にしかならないからです。


※法的、学術的にどうかは知りませんが、文化的にいえば堕胎は殺人です。なぜなら、懐妊した人や夫婦やカップルはたいてい「デキた」という言葉遣いをするからです。この「デキた」はもちろん「赤ちゃんが、デキた」という意味です。周囲も同じ言葉遣いをします。産科医は「もうお腹に、赤ちゃんがいますよ」、友人知人は「赤ちゃんできたんですか。おめでとう」「デキちゃったんだ、やばいよね」。
「赤ちゃん・赤ん坊・赤子(・水子)」とは「人生のある時期における人間の呼称」です。乳児も「赤ちゃん」ですが、胎児も「赤ちゃん」です。乳児期の人間が人間であるように胎児期の人間も人間だということです。よって、胎児を掻爬しその生命を終わらせるならそれは「殺人」です。
 法的・学術的・一般論的に堕胎が許されていようがいまいが、その権利があろうがなかろうが、人工妊娠中絶の事実にあとあと苦しんだり、ずっともやもやした気分を引きずったりする女性がけっこうな数にのぼるのは、「文化的文脈において」胎児が「人間」だと了解されているからです。
 ちなみに「水子」は「堕胎した胎児」のことではありません。今はそういう使われ方もしますが、そもそもは「赤ちゃん」「赤ん坊」「赤子」などと同じ意味です。




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