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二章 実技編 6 [正しい本の読み方]




 6 初歩の六歩:対話的に読む 補2

 本を読んでいると、「どうしても分からない」文に出合うことがあります。「なんとなく、こういう意味じゃないかなあ」レベルを超えている、辞書を引いても分からない、「なんのことやらチンプンカンプン。まったく理解不能」というやつです。そういう文に出合ったときはどうするか、これも話さないと「正しい本の読み方」の指南になりませんね。
 じゃあどうするか。もうこれしかありません。

・ひたすら原文をオウム返しする


②実践的オウム返しの用例

「素読百遍 意自ずから通ず」という言葉があります。「そどくひゃっぺん い おのずからつうず」と読みます。
「素読」は「声に出してただ読む」という意味です。意味を考えたりしないで、ただ声に出して文を読むだけ。それを百回繰り返すと、文の意味は自然と分かるという言葉ですね。同じことを読書でもやればいいわけです。
 べつにいちいち声に出す必要はないでしょうが、ともかく百回でも二百回でも読む。例えば、
「我思う ゆえに我あり」
 という言葉の意味が分からなかったら、「我思う ゆえに我あり」とひたすら頭の中で繰り返す。そういう方法です。そしてこのときもやっぱり対話的にして、「デカルトさんが言いたいのは、我思うから我はあるということですよね?」と問いかける。つまり相手の言葉をオウム返ししていくということです。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
 という言葉の意味が分からなかったら、「つまり、天というものは人の上に人を造らなかったし、人の下にも人を造らなかった、ということですよね」というオウム返しを百回でも二百回でもやる。そうすると、場合によっては(あくまで場合によってですが)、ふと意味が分かることがあります。まじです。

 ところで、なんでそんなことが起こるのかを説明します。説明できるからです。なんで「ただ声に出して読むだけのことを百回繰り返すだけで、文の意味は自動的に分かる」などという現象が人間には起こるのか。防衛本能からです。たぶん。

 分かる分からないを問わず、なんかしらのモノなり現象なりに出合ったとき、人は必ず「それは何か」を分かろうとする生き物です。もちろん動物だってそうですが、なんでそれを分かろうとするのかというと、「自分にとって危険なものではないかどうか」を判断しないと危ないからです。
 あるいは、「食料などの、自分にとって有用なものではないのか?」という反応をしないと食いっぱぐれるわけです。これはもったいないし、場合によっては自分を不利にしてしまいます。
「それは何かを分かろうとする」、こういう反射作用が人には備わっていて、だから何に対しても人は常に「分かろうとしている」状態にあります。脳は常にそういう運動をしている、といってもいいですが、もちろん睡眠中の視覚などは別ですけどね。

 さてじゃあ人はどうやって「それ」を「分かる」するのでしょう。ひとつはとうぜん本能的に、です。けれど、人の場合はこの「本能」というのがほとんどあてになりません。あてにしてるのはこれです。
 人が「それ」を「分かる」するのは「記憶」によります。つまり過去の出来事を参照して、「これは危険だ」「これは食料だ」と分かる。過去の記憶を組み合わせて、「たぶんこれは飲んでも大丈夫な液体だ。自動販売機で売っているものはこれまでそうだった」と判断して、人は自動販売機で新発売のジュースやウーロン茶を買ったりするわけです。
 もちろん、いちいちそう考える人はいません。脳が自動的にそうしてるだけです。自動販売機を「あ、自動販売機だ! お金を入れればジュースが飲めるぞ!」と了解するのは、脳が勝手に過去の記憶を引っぱりだし、参照してくれているからです。
 つまり大事なのは、この「記憶の倉庫から、脳が勝手に関係ありそうなものを引っぱりだしてくる」なんです。

 そういう運動が人には最初から備わっているのですが、だからとうぜん「まったく分からないもの」に対しても脳は同じことをしようとするわけです。防衛本能から。「それが何かを分からないとやばい」と。

 よく、「まったく未知のもの。ゆえにまったく分からないもの」に出合ったとき、人も動物も「それを凝視する」をします。
 つまりこれは、「それが何かを分かるために、脳が記憶の倉庫をあさっている状態」なんです。たぶん。
 凝視して、部分々々に注目したり、よりフォーカスを高めたり、逆に遠景から見つめてみたり、斜めから見たり横から見たり、ともかくいろいろする。つまり「それ」の情報をどんどん集めていくわけですが、その情報を元手に脳は「あれでもない、これでもない」と記憶の倉庫をあさるわけです。あるいは、記憶の断片をあれこれ組み合わせて、「それ」を捕捉しうる考えなりをつくるわけです。

 なので、です。

 まったく意味が分からない文を凝視し、ひたすら読みを繰り返していると、どこかで脳が「この考え方でいいんじゃないか?」という記憶なり断片の組み合わせなりを発見/発明してくれる可能性があるわけですね。
 で、実際これはあるんです。たまにですが。
 気にかかっている文なり言葉なり価値観なりを、ひたすら頭の中で繰り返していると、自分でも驚くような理解や解釈が、ぽこっと自分の中から出てくることがあります。自分のどこからそんな考えが出てきたのか、自分でもぜんぜん分からない、けどそれでちゃんと「それ」を理解できちゃう、そういう瞬間というのがなんでか人にはある。
 で、それがなぜかを考えると、さっき話したみたいな「それが何かを分かろうとするのが脳だから」「分かるまで記憶をあさったり組み合わせたり、いろいろしたがるのが脳だから」という結論に至るわけです。べつに天啓とかそういうもんじゃない。

 *

 ゆえに、「まったく理解できない文」に出合ったときにも、「ダメだ。自分には理解できない本なのだ」と諦めず、ひたすらオウム返しをしてみるといいわけです。うまくいけば、ぽこっと来るかも知れません。なので次に教えるのは、その「ぽこっと」の確率を上げる方法です。
 さっきみたいに、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」→「つまり福沢さんが言いたいのは、天というものは人の上に人を造らなかったし、人の下にも人を造らなかった、ということですよね」と、まんまオウム返しするのは基本です。じゃあこれの応用はどういうものかというと、

・意味を反対にしてみる

 が例えばひとつです。うちの『読書入門+』で使った理解/批評を例にしてみますが、湊『告白』にこういうくだりがあります。文庫の59ページ。うちの本では序二の中心的な話題ですが、

 私は二人の牛乳に今朝採取したての血液を混入しました。……桜宮正義先生の爪の垢ならぬ血液をこっそりいただいてきました。

 意味を反対にしたオウム返しを、これに入れてみます。

「私は二人の牛乳に今朝採取したての血液を混入しました──ということは、夜に採血したわけじゃない、ということですよね」「今朝、ということは、昨日の昼でも夕方でも夜でもなく、日付が変わった今日の深夜から未明まででもない、ということですよね」

 こんな感じですね。
 話の順序が逆になってしまいますが、この「意味を反対にしてオウム返しする、問い直す」というのはかなり使えるワザで、あたしなんぞはもう無くてはならない武器のひとつにしてますが、そういう読み方をふだんからしているので、「なんで夜に行わなかったの?」という疑問にすぐ繋がったわけです。
「憲法9条が戦後70年の平和をもたらした」→「ということは、9条が無ければ日本はまた戦争していたということでしょうか。べつに改憲してもいいとか、してもしなくても同じだということじゃなく、『9条が無くてもたぶん日本人はもう戦争なんかしたくなかったはずだ』という考え方は出来ないのでしょうか」とかね、「ひっくり返しのオウム返し」(その時点では揚げ足とりとも言います)に慣れるとこういう使い方が出来ちゃう。
 ともあれ、次。

・意味/イメージを具体的にしてみる

 さっきと同じ例文を使いましょう。

「私は二人の牛乳に今朝採取したての血液を混入しました──ということは、私、つまり森口さんが採取したということでしょうか。混入は森口さんがしたけれど、採取は他の人がやったということでしょうか。そこらへんの区別がつかない文になっていると思えるのですが、文脈から推して、採取も混入も森口さんが行ったと考えていいのでしょうか」

 こういうオウム返しを入れていくと、どんどんイメージが具体的になるわけです。よって焦点をしぼりやすくなっていく。

 私は二人の牛乳に今朝採取したての血液を混入しました。……桜宮正義先生の爪の垢ならぬ血液をこっそりいただいてきました。

「桜宮さんでもなく看護婦さんでもなく、森口さん本人が二人の牛乳に、夜のうちではなく朝採取した血液を混入した、と考えてよいのでしょうか。そして、桜宮正義先生の爪の垢ならぬ血液を、彼に気づかれることなく静かにいただいてきた、と考えていいんでしょうか」

 これでとどめを刺せるわけですね。「そう考えていいなら、どうやって採血したんですか? そんな方法あるんでしょうか──あるならそれを書いてください」。
 批評的な方法としてはともかく、「分からないときのオウム返し」にはこんな風にいくつか種類があって(バリエーションはいくらでもあるのでご自身でも考えてみてください)、それらを組み合わせながらオウム返しをしていくと、文意=その文がほんとうに表している内容やイメージというのが理解しやすくなるわけです。言い換えれば、「脳の記憶あさり」が今よりスムーズに行われるようになる。よって、その文を理解できる確率は高まるんだと。

 *

 とはいえ、身も蓋もない話になってしまいますが、オウム返しのほんとうの効能は実はこちらです。

・同じことをずっと考えていると、たいてい人は、それに関連するような物事に敏感になる

 音楽のことばかり考えている軽音楽部の高校生は、ちょっとでも音楽に関係あることにものすごく敏感なものだし、そのせいで音楽博士みたいになっちゃうことも多々ありますが、でも実際、あれって本人が「敏感になろう、なろう」としてなっているわけじゃありません。音楽のことばかり考えてると、自動的に音楽に関係ある情報をキャッチするようになっちゃう、だけです。
 そういう作用が人にはあって、だから分かんない文や本のことばかり考えていると、自然とそれに関係ありそうな情報やモノやヒトや場所にぶつかることになります。それを期待してオウム返しを続けると。
 内部記憶も大事だけど、外部記憶もやっぱり大事で、そうして人は「よく分かんない物事を理解」し、同時に「世界を広げていく」「世界にコミットしていく」わけです。
 ほんとに大事なのはこっちですね。




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