So-net無料ブログ作成
検索選択

表現てのはこういうもの [文化あれこれ]



●アマチュアバンドのボーカルは練習をしない

 例えばアマチュアでバンドをやっていて、誰がいちばん練習してこないかというと、ボーカルです。なぜか? 喉はふだんから使ってるからです。
 話すことは毎日しているし、言葉を使うことは毎日してる、鼻歌を歌うこともよくあるし、カラオケにだって行く。それで音程を外さず歌えてるんだから、もう自分は「歌」が歌えてると思っている。
 なのでアマチュアのボーカルはえてして、さあ練習でスタジオ入るぞとなっても、歌詞を覚えてくるくらいしかしてこないんです。

 一方、ギターやベースやドラムは違います。ギターを弾く日常なんてものはないし、生活習慣にベースを弾くなんてものもなく、寝たり食べたりするようにドラムを叩く現実も人にはありません。
 だから「楽器を練習する時間」というのを、わざわざ作らないとならない。
 しかもこの道具は、やっぱり日常ふだんにあるシャーペンとか定期券とか金銭とかスマートフォンとか、服とか箸とか手提げ袋とか自転車とは違います。音楽をやらない人はまず触らない、とても特殊な道具です。
 だからなおさら、楽器に触れる機会を増やさないと、ちっとも上達しません。

 でもじゃあ、ボーカルにとっての喉とか呼吸とか発声とか鼻歌はどうなのか。確かにそれは日常ふだんにある行為だし、日常ふだんから使っている道具です。けども、それはあくまで「日常ふだん」向けの行為だし、「日常ふだん」の使い方しかしてない道具なんです。日常のおしゃべりやカラオケで使ってるだけのもので、人前で金をとって聞かせるだけの価値は無い。
 だってそうです。おしゃべりやカラオケでいいなら、そんなの金を払ってまで聞くようなものじゃないからです。
(念のため、アマチュアバンドでもライブハウスにブッキングしてもらうとかでライブをやるときには、ちゃんと客から金をとります。ライブハウス側にしたら、金が入らないライブなんてやるわけにいかないからです。なのでアマチュアでも金はとりますが、ま、大半はバンドやってるメンバー本人がノルマをライブハウスに払うんですけどね)。

 アマチュアのボーカルはえてして、「喉」を楽器だとは考えていないし、日常ふだんに無い特殊な道具だと考えていません。だから、歌詞を覚えればもう「歌が歌える」と勝手に思ってしまっている。だから「人前で歌う歌の練習」というのをちっともしてこない(そうしてそのまま歌が下手くそなままいる)。
 ちなみに、だからアマチュアバンドの多くは、楽器演奏ならそこそこなのに歌がまるでダメ、というパターンに陥るんですけどね。

 *

 ところで、じゃあその「特殊な道具」であるところのギターなりなんなりは、ボーカルと似たような隘路に陥ることはないのか? あります。
 これはプロを含めてですが、ギタリストはギターを弾くのが日常です。そう、日常ふだんです。いっぺん日常ふだんになってしまうと、アマチュア・ボーカルと同じ事態に突入します。つまり「おれはふだんからギターを使ってるんだから、フレーズさえ覚えればもう弾ける」「コード譜さえもらえばすぐそれっぽい演奏はできる」という錯覚に往々に陥ります。
 そうして自己模倣に終始するだけで、なんの進歩も変化もないギタリストはざらにいますね(そうしていつか売れなくなっていく)。

 だからやっぱり、「楽器に触るのは日常ふだん」「プロ」になっても練習は必要だし、上手くなろう、新しいことをやろう、自分はまだこの道具を100パーセント使いこなせていないかも知れない、そう思う気持ちと行動は必要なんだったりします。


●同じことはすべての表現(者)/創作(者)に言える

 同じ事態にことに陥りやすいのは、言葉を使う表現(者)だし創作(者)ですね。
 誰でも言葉はふだんから使っています。だから、思ったことを話せばもう通じると信じ込んでしまっている。ちょっと人と違うことを話せば、クラスや職場のそれのように、ちゃんと注目されると一方的に思い込んでいる。
 そういうアマチュア作家はごまんといますが、でもそれは間違いなんです。

 少しでも意識的なアマチュア作家さんなら、誰でも気づいているように(つまりそれに気づいていないアマチュア作家さんのレベルまで落としてこの文を書いているということですが)、プロの文章というのはおよそ人工的に作られているものです。
 簡単にいえば、日常ふだんにあんなことを喋る人間なんていないし、あんな語彙を持ち出す現実なんて無いし、あんな感受性をあんな言葉遣いと文脈で言語化するなんてことは誰もしない──そういうものです。
 およそ人工的で不自然で、要するに作り物のフィクションです。それは、「ノンフィクション」ジャンルの文章/言葉もそうです。あんな言葉遣いで、あんな理路整然と、あんな意味のある内容の話なんて、自然の状態の人間は誰もしません。
 同様に、「リアル」といわれる脚本だってそうです。脚本の言葉/会話もまた、およそ現実にありえないものでしかありません。
 確かに、それに「リアルだ」「等身大だ」と感じるのも受け手です。けれど、そこにどれだけのリアリティを感じたとしてもそれは、「受け手がリアリティを感じるように書いているから、そうなってる」ものなんです。言い換えれば、現実の人間の会話をそのまま脚本にしても、ぜったいウケないということです。
 このことは、ふだんの自分たちの会話というのがどういうものか、ちょっと客観的に見つめてみれば誰にでも分かることです。
 プロの文というのは、きわめて人工的に──言葉をわるくすれば「作為的に」作られているものです。もちろん、「さもリアルであるかのように」。

 にもかかわらず、アマチュア作家の多くは、たぶんこういうことを知らないんです。日常ふだんの言葉遣いを平然と持ち出して、それで自分が何かを表現しているような気分になっている(としか思えない文章になっている)。
 あるいは、「日常ふだんの言葉遣いだからこそ自分の表現はリアルだ=現実的だ」などと、根本的なところで勘違いしてしまっている(としか思えない文章になっている)。
 大切なのは「さもリアルであるかのように見せかけるテクニックである」ということを、どうも知らない。

 言葉の表現に限らず、すべての表現とはすべてテクニカルなものです。つまり技術を体得しない限り表現は出来ないということです。仮にそれでウケたとしても、それは一時的な偶然です。
 必要なのは、その技術を体得するための訓練で、あとにも先にもそれしかありません。プロの表現者・創作者の仕事の99パーセントはこの訓練=習慣的な学習とその反復に当てられている、といってもいいはずです。


●プロの仕事ぶり、その日々

「とりあえず3か月やるから100曲書け」、プロまたはプロのタマゴになったミュージシャンがまず事務所からいわれるのはこれです。よほど強烈な個性を持ち、すでに熱狂的なファンも何千人と抱えているような人はべつですが、そういうもんがなければこれです。おれの友達に、とある大手の音楽事務所で歌手のタマゴをやってたやつがいますが、そいつはオリジナル曲を200だったか300だったか持っています。タマゴのまま芽が出なかったので、もちろんすべて発表されていませんが、そういうもんです。
 ともかく「曲を作る」習慣を作らせる。思いついたらすぐ曲にする、思いつかなくても曲を作りだす、相手に求められたものを期限どおりにきちんと提出できる、そういう習慣をまず体得させる、そういう意図ですよね。

 例えば、本を作るときには編集さんから、本文デザイン案(全体の書式のフォーマットになるデザイン案)を出すようにデザイナーなり組版技術者なりはいわれます。たいてい3案は出すよういわれます。2案だと少ないほうで、よほど信頼的な関係でも1案というのはまずありません。これにどれくらい時間をもらえるかというと、たいてい半日、多くて1日です。3案ともボツになったら、同じことをもっと短い時間でやらないとなりません。場合によっては徹夜です。
 デザインなりなんなりを仕事としてやるとはそういうもんです。クリエイティブといえば恰好もつきますが、実際には「四の五のいっていられない、ぎりぎりまで自分を絞ってようやく形にしてる」と、そういうもんです。

 あるバンドがライブをするとします。3か月後に決まっています。その3か月間、じゃあそのバンドが何をしているかというと、練習です。毎日スタジオに入って、曲順を決めて通しで練習。メンバーそれぞれ家に帰って、上手く歌えてない弾けてない叩けてないとこを復習。ピンときたフレーズを思いついたら予習、そのフレーズを歌いこなす弾きこなす叩きこなすためのまた練習。つまり、クリエーターの毎日というのはものすごく地味なんです。
 華々しいのはライブの2時間だけで、その2時間をのぞけば(というよりその2時間のために3か月は)、スタジオなり自宅なりにこもってひたすら練習練習練習。ちょっとしたアイデアを書き留めて、そのアイデアを形にするための学習学習学習。途轍もなく地味です。派手さのかけらもない。

 これがどういうことかというと、むろん、「よほど好きじゃないとできない」ということです。およそ地味な作業の繰り返しで、ぎりぎりまで自分を絞るようなことが頻繁にあり、それでもこの仕事がしたいと思うような人間は、正直にいいますが、ばかです。
 そういう音楽ばか、デザインばかにならないと、仕事として創作・表現なんて出来ません。もちろん、天才をのぞけば、ですけどね。


●天才と凡人はどう違って、どう違くないか

 なんの練習もしなくてもいきなり歌が歌えてしまうという人が、世の中にはいます。他より少ない練習で、高い水準のデザイン案を提出できるデザイナーさんもいます。とはいえ、たいていの人間はそうじゃありません。
 けれど、天才じゃなかった人間でも、練習量である程度はカバーできるものだったりします。なぜかはもちろん、繰り返し、表現も創作もテクニカルなものだからです。

 よく「表現」「創作」というと、センスがどうとかひらめきがなんとか言われ、個性やらオリジナリティやらがうんぬんされるものですが、そういうものは実際の現場ではほとんど関係ありません。
 もちろん、第一線で活躍し歴史に名を残すような、飛び抜けた天才はべつです。けれど、そういうレベルを目指さなければ、誰だってそこそこの表現も創作もできます。それらはテクニカルなものだからです。学習で身につけられるということです。
 技術さえ身につけてしまえば、誰だってある程度のものはつくれるようになります。必要な知識をきちんきちんとストックしていけば、一定の水準のアイデアは誰だって出ます。

 そういうことができないのは、単純に、「練習の仕方を間違えてるから」なんだったりします。アマチュア作家が陥りやすい隘路とは、実はこれです。
 もっと正確にいうと、「練習」というものの考え方を間違ってしまっているから隘路に陥る。考え方が間違えているから、適切な練習ができていない。だからどれだけ練習しても、ちっとも実を結ばない。そういうものなんですね。
 おれは昔、やはりクリエーターを目指す友達とこういう会話をしていたことがあります。「たぶんいちばん大事なのは、練習じゃなくて、練習の練習だ」。言葉あそびの観念あそびと思うかも知れませんが(当時のおれたちだってろくに分かってもいないくせにそんな議論をしてたのですが)、でも実際、この考え方/議論は正しかったと思います。
 ほんとうに必要なのは、「どういう練習方法がもっとも効果的なのかを、練習を通して学んでいくこと」なんですね。
 練習の仕方が適当じゃなければ、そりゃ、いくらやっても実は結びません。表現や創作を志すなら、練習練習練習なんてのは当たり前だし、つまり歌手なら歌う歌う歌う、ギタリストなら弾く弾く弾く、作家なら書く書く書く、イラストレーターなら描く描く描くなんて生活は当たり前だけど、そもそもその反復学習の練習方法が間違っていたら、実を結ぶわけないんです。
 そういう隘路にアマチュア作家さんはどうも陥っている。「ブロガーだかネット作家だかなんだか知らないけど、あんなの素人の戯言じゃないか。プロとして一線で仕事をしてる作家やキャスターや学者と比べるのもおこがましい」、そういう揶揄もあるようですが、本人なりに「書くこと」を日常にし、「書くこと」「発言すること」を自分に課している人は確かにいます。でもその発言なり表現なり創作が、どうしても「他人向け」のものになっていかないという状況があります。
 本人にしても、にっちもさっちもいかない状況になぜか陥ってしまっている。それはやっぱり、「プロ」的な練習方法をとれていないからなんですね。

 けどべつに、それはアマチュア作家さんたちの責任とは言えない、という話をしてみましょう。


●表現や創作に関する歴史と誤解はこういうもの

 歴史的にいうと、世間の表現・創作には、「芸術」と「芸能」というふたつの大ジャンルがあります。単純に、文学でたとえて言うなら、芸術は純文学、芸能はエンターテイメントという風に考えてくれればいいです。
 さてじゃあ、この「芸術」と「芸能」の違いとはなんでしょうか。人によっては「芸術は知識層向けの高尚なもの、芸能は庶民向けの娯楽(低俗な)」と言うでしょうが、これは違います。両者の違いはこうです。

・芸術は「自己表現」を目的にする
・芸能は「自己表現」を前提にする

 つまり「自己表現」というものを後に置くか前に置くかの違いです。

 近代以降の芸術というのは、もっぱら「自己」を問題にしました。詳しくは端折りますが、だからこれは最終的に「自己を表現すること」が大事になっていました。
 一方の芸能は伝統的に(つまり近代やそれ以降に限らず)、「あたしは歌を歌うのが好きだから歌手になりたい!」とか「みんなに『絵が上手だねえ』て褒められるし、やっぱおれは絵描きが向いてる」とか、そういうところから始まります。つまり、「歌が好きなのが自己」「絵が上手いのが自己」という前提から始まるのが彼らの活動だということです。
 彼らにしてみれば、「歌を歌っている時点で/絵を描いている時点で、もう自己は表現されている」わけです。よって、自己表現は前提になっている。
 だから彼らは、当たり前に他人のための歌を歌うことができるし、企業広告のためのイラストを手がけることができるわけです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、そういうものなんです。
 誰だって自分のしたいことをしたいし、それでみんなに認められたり、受け入れられればうれしいものですが、にもかかわらず他人のための表現・創作ができるのは、「自分が無いから」ではなく「自己表現が前提になっているから」なんだってことです。
 そしてそれが芸能なんです。
 そして、今現在「クリエイティブ」と呼ばれているものは、もちろんこの「芸能」に相当するものなんだったりします。

 にもかかわらず、です。

 民主主義という政治制度の下では、「自己実現こそ大事」とされます。「あなたの人生の主役はあなたなのです」「自分を大事にしましょう。主張しましょう。表現しましょう。あなたなりの自己を実現しましょう(それを受けとめてくれるのが、私たちの素晴らしき民主社会なんです!)」みたいな風潮が(芸術・芸能とはなんの関係もなく)広まってしまった。
 そういう中では、表現・創作をやりたい人も、「自己表現を目的地にする、芸術家のようなスタンス」をとるようになってしまうわけです。
 あるいは「自己主張・自己表現・自己実現こそ大事」とする教育(洗脳ともいいます)の中で育った凡人くんが、でも当たり前のごとく自己主張・表現・実現などできず、困ったなあと感傷的になり、ついつい「クリエイティブなもの」にすがってしまうという、そういう事態も起こるわけです。
(実際、サブカル系の表現・創作をやりたがる人というのは、ほとんどこれだと言っていいと思います。おれもそうです。でも出自がどうであれ、この文化は大事だ、この文化の当事者になりたい、そういう気持ちもまた、自然なものです)。

 ちなみに、「主張に値する自己」とか「表現し、他人の鑑賞にたえる自己」とか「達成されるべき大きな目標を持った自己」なんてもん、ふつうは誰も持ってません。ふつうは誰も持ってないものを「それはあるんです。あなたは持ってるんです。だからそうしなさい、そうしなさい」などと煽るほうがおかしいんです。
(けども、そう煽られた結果、サブカル系の文化にすがり、せめてもの自己主張・表現の機会をもらい、いつかそれにのめり込み学び練習し、そのジャンルでプロフェッショナルなレベルまで行き、鋭い疑義や大切な感傷を表現し社会に影響を与え、つまりみんなの生活を豊かにし、後進に確かな技術と知識を与えるようになる、それもまた現実なので、一概に悪いとは言えないかも知れません)。

 ともあれ、そうして「自己表現」というものを芸術家的スタンスで捉えてしまうばかりに、アマチュア作家さん(に限らず)は、「ともかく自己が表現されてないといけない」「実際、自分のいいたいことをいうのは気持ちいいんだから、これでよいのだ。社会だって(学校だって)それこそ奨励してるのだし」などと、悪循環にはまっていくわけです。
 言い換えれば一方で、「他人のための歌を歌う、企業のためのイラストやデザインを描く」芸能的スタンスの大切さに気づかないままになってしまう、ということです。

 繰り返し言いますが、そういった芸能的スタンスには「自分が無い」のではありません。むしろありすぎるくらい、はっきり明確に彼らの「自分」はある。それは「歌さえ歌えればあたしはいいんだ」「ともかくおれは絵が描けるんだから、もうなんだって描いてやる」とそういうものです。
「自己表現が『前提』になっている」とはそれほど確固とした、強力な表現行為・創作行為を生むものだってことです。
 一方の芸術家的スタンス──「自己表現を『目的』にするスタンス」とは、(真の芸術家は別として)「作品なりなんなりを生みだしたのちに、やっと自己を確信できる」という、ずいぶん頼りない「自分」しかないんだったりします。

 絵を描くことが好き、音楽がやれるならもう他には何もいらない、文を綴りひとつひとつの言葉が正確にひとつの意図になっていく瞬間を手放したくない、ともかく自分が表現するものをみんなに知ってほしい、表現している自分こそ自分だと認めてほしい、そう思うあなたは、だからそれがあなたなんだってことです。
 いちいちそこに、「表現作品に足る自己表現」「聞くに値する(とたぶん他人に思ってもらえる)主張」なんてものを付け加える必要はないし、そうして達成される「自己実現」なんてものに意味はないわけです。だってそれは「自己」じゃないんだから。(芸術的レベルまで行くなら話は別ですけどね)。
 そんなことよりも、「ただ自然に、当たり前に自分が思ったこと」を「どう表現し、伝えるか」のほうがよほど大事なんです。あるいは「相手はこういうものを求めているのだろう」と思えたときに、そのとおりをものを差し出せることが。
 つまり「表現し、伝えるための技術」が。


●表現というもののポジション

 芸術か芸能かにかかわらず、いえばクリエイティブか職人仕事かにかかわらず、フィクションか現実かにもかかわらず、「きちんとした表現」というのは必ず「他人と自分の中間にあるもの」です。必ずです。
 それを受けとめる他人と、それを送り出した自分との、ぴったり中間に位置しているもの、それが「きちんとした表現」です。
 これは芸術映画も娯楽大作も、大手化粧品メーカーの広告デザインも近所のディスカウントショップの安売りチラシも、文芸の名言も日常会話のおしゃべりも同じです。
 それら表現できちんとしているものは、必ず送り手と受け手の中間にある。
 ちなみにこれは、送り手が意図しているかどうかは関係ありません。「きちんとした表現」つまり「表現の意図が過不足なく相手に通じる表現」というのは、本人の意図を問わず両者のぴったり中間にあるということです。
 そして、プロの表現・創作というのは、「意図的にぴったり中間に置くこと」をいいます。「ぴったり中間に置く」のが、仕事として表現・創作をする人間のルールです。

 そう話すと分かると思いますが、この「ぴったりの中間点」から、他人側に寄った表現を「迎合」というわけです。自分側に寄ったものは「自己満足」ですね。
 もちろんそれらは「よくない表現」ですが、アマチュア作家さんたちが陥りがちな葛藤に、この「他人に迎合すべきか、自己満足(自分のやりたいことをやる)をとるか」というものがあります。そしてこの葛藤は、往々に終わりがありません。なので苦しむことになるわけですが、なんでそういうことになるのかはもう分かるでしょう。
「中間」という発想がそもそもないからです。「中間点に置くのがそもそも表現」という発想が欠けているから、です。
「他人をとるか、自分をとるか」という二項対立の中でものを考えているから、行ったり来たりが続く。というか、続いてしまう。けれど、そもそもそういう二項対立で考えるほうが間違ってるんですね。
 仕事として表現をしている人間というのは、常に「両方とる」をやってるんです。「他人も自分も両方とる」。それをやれないと仕事になんかできません。

 もちろんそれは、「おれは自己表現としてこれやりたい、おれはこういう人間なんだ! けどクライアントにはそれは通じないだろうから、うーむ、弱った。とりあえず中間で濁すか」というようなものではありません。
 繰り返し、芸能的スタンスとは「絵を描けてる時点で、歌を歌えてる時点で、もう自己表現は済んでいる」ものです。ではどういうことか。
 クライアントの要求に対して、でもやっぱりデザイナーなり歌手なりは、「おれにするとその企画はこういうデザインがいい気がするなあ」「あたしにするとこのキャンペーンではこういう声質で歌ったほうがぴったりくるはずなんだよなー」と考えるわけです。つまりそこで、デザイナーや歌手の「個人的な考え・アイデア・思い」が出てくる。いくら仕事といえど、すでに自己表現なんて済んでいるとしても、やっぱり個人的な・自分なりなアイデアというのは出てしまう。いえいえ、そういう「(そいつなりの)アイデア」がちゃんとでなけりゃ、仕事も何もないわけです。
 こういう「個人的=自分」と「クライアント=他人」の中間に置くのが、仕事としてクリエイティブなことをしてる人間の現実だってことですね。

 他人と自分のぴったり中間に表現を置くとは、「他人のものでもあり自分のものでもある」表現をするということです。同時に、「他人のものでもなく自分のものでもない」表現をするということでもあります。つまり曖昧です。
 とらえどころがありません。自分が喜んでいいのか、他人に喜んでもらいたいのか、他人に喜ばれることに喜んでいいのか、自分の喜びを他人たちにも分かりあってもらいたいのか、ずっと答えは出ないままです。だから耐えるしかありません。
 こういうどっちつかずでつかず離れずの表現活動に、それでも耐えられるような人しか表現の仕事はできないということですね。
 そして、この辛さというかまだるっこしさというかは、「他人をとるか自分をとるかと、本人の中だけで葛藤してる」アマチュア作家の苦悩とはまったく別種のものです。現実の客なりクライアントなりとのあいだで起こっている、それこそリアルな厳しさだし、まだるっこしくもイライラする葛藤です。

 言い換えれば、仕事として表現をするとは結局、「ともかく差し出してみるしかない」ということです。
「自分にできる仕事はここまでだ。最大限に力を出したのがこれ。あとはもう相手の反応を待つだけだ」という、そういうものにしかなりません。迎合してるかとか自己満足かなんて考えてる余裕はありません。ともかく自分の知識と技術を出し切って、デザインを3つ出せといわれたらその3つのどれを選ばれてもぜったい自分は納得するものに仕上げる──他にすることはないんですよね。
 ただそれはきっと、アマチュアながらも考えに考えて、練りに練って、推敲に推敲を重ねて、ようやくネットに投稿するその時の気持ちと、気持ちとしては近いものだとは思います。

 そしてそうなら、そういうときの担保になるのはやっぱり、「まだるっこしかったり厳しかったり徹夜だったりもあるけど、やっぱおれこの仕事してんの好きなんだよな」という、自己表現を前提にした芸能的スタンス、なんですよね。
「おれが言いたいのはこれだ。これを通してみんなにおれを知ってほしいんだ」とか、「これはあたしだけの感傷かも知れないけど、でも少しだけでも気にかけてくれる人がいたら、あたしは満足なんです」というものじゃなく、
「とにかくおれは絵を描いてたいんだよ」「あたしの日常から文を書くことがなくなったらひたすら退屈なだけなんだ」と、そういうものです。

 仕事なんだから、書きたくないことを書くことはあります。関わりたくない本に関わることはあります。ていうか、ほとんどそればっかです。けどそれでも出版に関わっていたいという、そんだけでやっています。おれはね。
 そういうのって、「ともかくブログで発言していこう」「三日とおかずに作品を発表していこう」「ともかく思いついたアイデアはぜんぶ音楽にしないと」──誰に強制されたわけでもないのにそう自分にいつか課しているような人なら、きっと分かってもらえると思います。
 そんな自分を「自己」と思っていいし、もうその時点で「最初の、いちばん大事な自己表現はすんでる」と思っていい、ということです。
 その先の、ただただ商業的な要請にこたえるだけの表現の案出も、「自分で案出している」時点で、十分に自己表現なんです。(むしろ、それすら実は自己表現だといわれるほうが困る人は多いはずですが)。
 だからあとは、「じゃあどうクライアントの要請にこたえていくか、他人の希望にそったものを提出できるか、他人と自分のぴったり中間に作品を置けるか──そしてそこにわずかでも自分のオリジナリティを加え、それでそのクライアントに認めてもらい信用してもらい、先々も仕事をもらえるか=他人から『あいつはいいね』と思ってもらえるかどうか」なんです。


●技術てのはこういうものです

 抽象的な話はさておき(とはいえどんな仕事にも哲学=その仕事をとどこおりなく進めるための考え方とはあるものだし、その考え方は「考え方」である以上、抽象的にしかならないものです)、具体的にまいりましょう。じゃあ具体的に表現・創作の技術とはどういうものなのか。
 プロなら誰でもいいんですが、前にうちのTwitterでちょろっと盛り上がったスピッツにしましょうか。草野マサムネ、プロ中のプロの作詞ですね。どれだけリアルに感じても、「表現」「創作」とはそもそも人工的なものだということを話すのにも、やっぱこの人がいい気がします。
 まず、この人の作詞の特徴はこうです。

・大人びた難解/堅い/まだるっこしい表現ではなく、子どもっぽくも簡潔な言葉遣いを大切にした比喩表現を好む
・マイノリティの味方(見方)である
・さびしい、わびしいなど、伝統的な日本の感受性を大事にしている
・孤独(じぶんひとりから見聞きできるもの・こと)を前提にしている
・日常性に重きを置いている

 さてその草野の作詞に、『僕の天使マリ』というのがあります。とある男のコが、大好きな女のコのことを歌った歌です。そこに、こういう一節があります。

 朝の人混みの中で泣きながらキスしたマリ
 夜には背中に生えた羽を見せてくれたマリ

 ここで話題にするのは二行目ですが、このくだりはどういう意味でしょう。
 まずもちろん、「夜には」から始まるのだから、このシーンが性的なものだとは誰でも連想します。そして、一行目「人混みの中で泣きながらキスした…」がなんとも乙女ちっくで、それこそ「少女マンガの名場面」のような印象があるため、その性的シチュエーションも、「まだまだ子どもっぽいカップルがいちゃついてる感じ。空を飛びまわるような浮かれた気分でじゃれあうように愛しあってる感じ」とも感じます。
 ただもちろん、「背中に生えた羽を見せる、ということはマリ=女のコは服を脱いだということだ」ということでもあるのだから、「子ども同士のじゃれあい」とかより、もうちょいエロチックな想像もできてしまうのが、この作詞です。
 とはいえ、です。それらの解釈でもなんか弱い気がしてしまうのは、「羽」というのが空を飛ぶためのものだという点です。天に昇っていくためのもの、と言ったほうが分かりやすいでしょうが、要するに「夜には」昇天=エクスタシーを得てたのがマリだということです。だとしたら、もちろん「僕」のペニスで。つまり、そのものずばりがこの表現だということです。
 けれど、ぜったいそういう風には聞こえないように作詞されているという、これが草野のテクニックだし、プロの創作者の技術と知識(この場合は語彙の収集)なんですね。

 いえ、もっと正確に言いましょう。幼い世代には「(自分たち)子ども同士のじゃれあいのように」、まだまだうぶなコたちには「女のコが服を脱ぐシチュエーションのそれとして」、いい加減セックスに非日常的なイベント性がなくなってる連中には「そのものずばり」として聞こえていいように作られてるのがこの作詞だと。
 この作詞はそう聞いていいもので、それくらい幅広い「クライアント」それぞれに対し、それぞれとの「ぴったり中間」に置いてあるのがこの表現だと。
 誰に対しても、言ってることは同じなんです。つまり草野じしんが言いたいことは同じなんです。「僕はマリと夜にはセックスした。そんで楽しんだ。マリも楽しんでた。だってちゃんと最高の瞬間も持ったんだよ、彼女」。けども、あらゆる世代=他人に、でもそれぞれに合った形で受けとめてもられる表現をとっている。とれている。
「表現とはテクニカルなものであって、創作者・表現者の人間性だの思想だの思いだの、ましてや自己表現なんてものとは何も関係ない」とはこういうことなんだったりします。作者のある思いなり考えなりイメージなりを、「どう表現するか」だけが表現行為で、だからそれはすべて技術的な問題なんだと。(ちなみに芸能ではこの技術のことを「芸」と呼んでいます)。

 草野も男のコですから(男ですから)、自分とのセックスで彼女がよがってくれたら嬉しいわけです(きっと)。自分のちんちんで絶頂を迎えさせられれば、「へっへっへ」なわけです(きっと)。あるいは少なくとも、「よかった。おれのセックスでもエクスタシーしてくれた」なわけです(これはほぼぜったい)。
 でもそれを、「夜にはおれのちんちんでよがってたマリ」などと歌われちゃ、聞いてるこっちもどっちらけなわけです。だから大事なのが「(見せて)くれた」ですよね。
 この作詞テクでいちばん上手い箇所はここです。「背中」でも「羽」でもなく、「(僕のちんちんでエクスタシーに達する姿を、僕に見せて)くれた」。このひと言で、男のコの(男の)満足が語られている。
 けど同時に、「くれた」と自分=オトコを受け身にすることで、「俺のペニスでよがらせてやる! オンナなんかみんなメス豚だ!」的なマッチョな男性と距離をとり、そういう女性蔑視的な価値観を批判しているところがこの作詞の上手さです。そして、草野の意志です。もちろんこういうものが「優しい男の子の歌」を歌い続ける草野の面目躍如なわけですが、ちなみにこの作詞のあとにはこういう一行が続きます。

 きっとこんな世界じゃ 探し物なんか見つからない

 この一行がステロタイプの社会批判/社会忌避じゃないのはだから分かりましょう。ここで草野がいってるのは、女のコを大事にしないマッチョ優勢の世界なんかおれはNOだ、です。(そんな風に「優しい男の子」草野は、けっこう激しいし反抗的で危険なんだったりします。今は関係ないけども)。

 子どもっぽい語彙をつかい、子ども的な感受性・世界観を表現することは誰にでもできることです。
 子どもっぽい語彙でそのものずばりを表現する、返す刀で大人と呼ぶに値しないオトナの世界(だから子どもたちはそこにもう行こうとしなくなってしまった)をぶった切る、そうして「ほんとうのおとなの在り方を考えよう」と迫ってくる、例えば草野はそういうことをしています。
 そんな攻撃的なスタンスはともかく、その表現が的確に聞き手との「中間」に置かれるものになっている。日常ふだん、ふつうに話すときふつうに出てくるような言葉なんて、ぜったい草野は使わない。人工的で、不自然で、フィクショナル。
 けども、それが実はいちばんリアルで、誰もに受けとめられるものになっている(しかもこの場合、八方美人の「どの世代でも誰でも通じる否応ない言葉遣い」じゃなく、聞き手によってイメージがちゃんと変わる言葉を使っている)。
 これがプロの技術だし知識です。芸です。

 そしてセックスを楽しいと思うこと、楽しかったと思い出すこと、恋人にエクスタシーを与えられて満足できた(男のコの、男の心情としての)こと、それは、草野個人の感傷ではありません。
 オリジナルな自己でもなんでもない、そう話せば「だよねえ」と誰でも言ってくれるような/言われてしまうような、一般的で普遍的なものです。
 だとしたらこの作詞は「迎合」でしょうか、「自己満足」でしょうか?
 どっちでもあるけどどっちでもない、どっちでもないけどどっちでもある、じゃありません?

 有名な告白ですが、草野は「ブルーハーツのヒロトになりたかった」歌手だし、作曲家だし、作詞家だし、音楽家です。そして今も彼は、「ヒロトになりたい」そのときの気持ちでやってるロックンローラーなんだったりします。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。