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二章 実技編 4 [正しい本の読み方]




 4 初歩の四歩:対話的に読む3

 おれが本にメモを入れるようになったのは、高源師匠の影響です。師匠がある本を読み返していたとき、「…U.J.か?」というメモ書きを見つけたそうです。「前に読んだときにそうメモしたようだけど(すっかり忘れてた)、たぶんこのU.J.とは植草甚一のことだろう」といった自己推測を本人は述べていました。
 高源師匠を目標にして、いつか彼のように本を読みたいと思っていたおれにすると、当時はなんでも師匠の真似っこをしたがったわけです。「なるほど、高橋さんは本を読みながらそういうメモをしてるのか。じゃあおれもやっちゃおう」。
 ともあれ、この「U.J.か?(植草甚一か?)」です。

 前章で繰り返し紹介してきたように、高源師匠は「書いてあることをそのまま読むのが読書」と豪語した人ですが、だとすると、この「U.J.か?(植草甚一か?)」はあるイミ矛盾しています。
 この「U.J.か?(植草甚一か?)」とはきっと、「この本のこの箇所は誰かの書き方に似ている──植草甚一か?」という意味か、「この本の書き手は植草甚一に影響されているのか?」といった意味合いだろうと想像がつきます。けれど、誰に似ているとか誰に影響されているかなんて、「その本そのまま」とは関係ないことです。むしろ先入観や思い込みという、本を読むのに邪魔な要素にもなりえます。
 ただ一方で、その本や作者が持っている背景を知るための、疑問/伏線としては役に立ちます。実際に師匠の読んだ本が(作者が)植草甚一の影響を受けているものなら、それだけ読書は深みと広がりを持つわけですね。

 さて、そう前置きしてから今日の勉強に入りましょう。これまで、

・疑問を持つ(疑問を持ったことを覚えておく)
・合いの手を入れる

 のが対話的な読書技術だと学習してきましたが、それが対話/おしゃべりなら、やっぱりこれがないと始まりません。

・脱線する

 *

 おしゃべりに脱線は付きものです。
「こないだ湊かなえの『告白』読んでさー」
「あたしもあれ読んだ。ああでこうでこうでさー」
「こうでああで、ああなのね!」
「けどミステリーっていえば伊坂だよね」
「おれは宮部かなー」
 と、ここでもう「湊『告白』の話」はどっかにいっちゃうわけです。
「『告白』はラストでいやーな気分になった」
「なんかホラー系の終わり方?」
「貞子?」
 とかそういう風に。
「こないだ湊かなえの『告白』読んでさー」
「あたしも読んだけど、中間テストどうだった?」
「最悪」
 て会話もあります。友達の顔を見たら、本より試験のことを思い出してしまったパターンですね。
「こないだ湊かなえの『告白』読んでさー」
「あのHIVのやつ?」
「そうそうHIV、血友病の人とかのあれ、あれは可哀想だったよね。『告白』にも載ってたけど、大事件だったでしょ」
「血液製剤にHIVがまざってて、それ当たり前に輸血してたって」
「こわいよねー」
「国は何やってんだってさ」
「だいたい政治ってのがよくないんだよ」
 と、いちおう『告白』には関係あるものの、『告白』の筋にはぜんぜん関係ない話題に飛んでしまうパターンもあります。
 そうしていずれの場合も、
「で、なんだっけ? そうそう、湊の『告白』だった『告白』だった」
 と戻る(戻らない場合もある)。

 おしゃべりとか会話とか対話と呼ばれるものは、往々にそんな風に脱線するものです。言い換えると、連想にまかせてあれこれ話題が変わっていく、自由な運動がおしゃべりだってことですね。
 なのでやっぱり対話的な読書でも、この脱線/自由運動は付きものなんです。むしろ、それがないと「対話」的にならない。
 とはいえ、ここが本の場合は厄介なのですが、本(文章)というのはどれも原則、「脱線しない話」として書かれているものだということです。どんな本(文章)でも、ひとつの筋のある話としてきっちり繋がっている。最初から最後まで、一本道。
 というよりも、「本来自由に運動するのが人の言語的活動だし言語的現象なのだけど、その連想まかせの自由な運動を止めて、一定の筋と枠組みの中に定着させること」が実は「書く」という営為なんですが、よって本(文章/文書)として書かれたものは必ずや脱線のない一直線になるわけです。
 ま、面倒な言い方をすれば。
(もちろん、そういう「本/文章/文書」のカタチに反抗して、あえて脱線する書き方もありますし、「書く」より「しゃべる」の優位(または両者の等位)を説くために連想的なおしゃべり文を発表する方法もあります。それらは前衛的とかポップとか呼ばれますが、そういう意図的なカウンターを除けば、本は原則「脱線を禁じているもの」なわけです)。

 そうなると困るのが読書です。対話的に読書を進めていて──つまり本や作者とおしゃべりするように読書を進めいるそこでは、当然のごとく「お、ミステリーか。まあミステリーたら伊坂だよな」「『告白』の舞台は学校か。学校っていえば、もうすぐ中間テストだな」とは連想してしまうものだからです。高源師匠の「U.J.か?」みたいにね。
 けども、「まあ伊坂のことは置いておいて、今は私の『告白』を読みなさい」「植草甚一に影響を受けてるかどうかはともかく、今はこの本に戻りなさい」、そう引き戻そう引き戻そうとするのが「脱線をゆるさない、本」というものなわけです。
 例えばその『告白』では、主人公の元婚約者が感染していたというカタチで「HIV」という単語が出てきます。彼はHIV感染の事実に絶望的な気分になりますが、

 …HIV感染がわかったからといって彼自身が自暴自棄になることはありませんでした。自業自得といえばそれまでです。血友病の患者の方など自分にはまったく過失がないのに感染させられた方もたくさんいらっしゃるのですから。

 そう作文を続けられると、「血友病ね、HIVに感染してる血液製剤を輸血してたって、あれは大問題だったよなー。だいたい国がいけないんだよな、政治が」とはやはり連想=脱線してしまうわけですが、でも当の『告白』(という本)は、

 それでも、彼の内なる絶望感は計り知れないものだったと思います。私は彼に結婚しようと言いました。

 という文脈を繋げてきて、まあ当然のごとく『告白』内部に読者の意識を引き戻そうとしてくるわけです。前節の合いの手の例文風にすると、その読書はこんな感じです。

 …HIV感染がわかったからといって彼自身が自暴自棄になることはありませんでした。自業自得といえばそれまでです。血友病の患者の方など自分にはまったく過失がないのに感染させられた方もたくさんいらっしゃるのですから。(そうそう血友病ね、HIVに感染してる血液製剤を輸血してたって、あれは大問題だったよね。だいたい国がいけないわけですよ、政治が)
 それでも、彼の内なる絶望感は計り知れないものだったと思います。私は彼に結婚しようと言いました。(と、そうだった『告白』でした。今は血友病も国も政治もいいんでした。で、えーと、えっ、それでも彼と結婚しようとしたんだ、森口さん。なんでなんで、それでそれで)

 そういう風に、ぜったい脱線をゆるさないのが本なわけです。こっちが脱線しても、必ず本筋に引き戻そうとしてくる、それが本だと。

 *

「本」というのがそういうスタンスをとっているゆえでしょう、だから学校で教える本の読み方には「いくらでも脱線しましょう」みたいな教育はありません。これは「読む」より「書く」のほうが分かりやすいでしょうかね。いったように人の言語的営為とは本来自由に運動するものですけれど、学校の作文の授業では「連想にまかせてあっち行ったりこっち行ったりする作文」というのは認めてもらえないわけです。だから読書感想文も「本の筋と内容に沿った読み方」以外は認めてもらえない。
 脱線する読み方は「正しくない」と言われてしまう、それが学校の教える「本の読み方」だし、ゆえにみなさんが信じている「本の読み方」なわけです。ゆえにそこでは、「血友病かあ、あの薬害エイズ事件は大問題だったよな」と思ってしまった自分のほうが「間違った読み方をしている」と思いがちです。
 けども、そうじゃないんです。

 うちから出している『読書入門+』にこういうくだりがあります。序一4節「ところで湊の勘違いのこと――血液を飲んでHIVに感染するの?」です。pdf版でいうと14ページですが、

 …血液を飲んだ場合の感染は血液感染と同じでしょうか?
 HIVといえば「血液感染」が大問題になったものでした。むろん、そういった背景から『告白』の犯行=「HIV感染血液を使ったほぼ殺人」のリアリティも生まれてるわけですが、――一般にHIV(に限らず)の「血液感染」とは輸血などの場合をいうものです。血管に感染血液や感染血液製剤を注入する場合、つまり直接こちらの血と感染血液が混ざり合う状況です。べつに感染血液を飲んだ場合をいうわけじゃありません。

 HIV感染に関する『告白』のシチュエーションは、感染血液を「飲用」したものなのですが、おれがこういう疑問に難なくたどり着いたのは、もういうまでもありません。

 …血友病の患者の方など自分にはまったく過失がないのに感染させられた方もたくさんいらっしゃるのですから。(そうそう血友病ね、HIVに感染してる血液製剤を輸血してたって、あれは大問題だったよね。だいたい国がいけないわけですよ、政治が)

 と脱線していたからです。ここで血液製剤の「輸血」というシチュエーションを思い浮かべていたから、『告白』の「飲用」というシチュエーションとは「違う」とすぐに思ったわけです。
 そうして「輸血と飲用は同じなの? それ違うんじゃないの?」と調べてみた結果、その序一で指摘したミステリー『告白』の致命的ミスうんぬんのくだりが書けたわけです。もちろん、『読書入門+』【デモ版】を読んでくれた人なら分かると思いますが、この疑問と指摘から、「そもそも『告白』という長編小説はどのようにして生まれたか」も分かるんですよね。(序二5節、pdf版p.40~)。
 これを正しい読書と呼ばずに何を正しい読書と呼ぶんだと、自分で言ってりゃ世話ないですが、けど学校よりおれのほうが、「その作品/作者を理解する」は出来てるでしょ。学校で教わるような「脱線しない本の読み方」で『告白』を読んでた読者より(好悪はともかく『告白』をひとつの完成した(ミステリー)小説と認めた読者より)、ちゃんと『告白』のことを分かってる。

 そういう読み方を教えてくれたのが「U.J.か?」の高橋式読書法で、そうそう、さすが本人だけあって、この人も脱線の必要をよく話しています。
 付け足しておくと、メモをとりながら本を読むというと、どうしても学校的な「この本の要点は何か」「このくだりはどこが大事か」に線を引き感想や疑問を書いておく、というものだと思ってしまうかも知れません。思ってしまうと、どうしても「脱線した感想」「道草でしかない連想」はメモしておいちゃいけないんじゃないか、とも思ってしまうでしょう。そんな感想はこの本に関係ないんじゃないか、いちいち残しておく記録/記憶じゃないんじゃないか、そんな風にきまじめに思っちゃう。けども、そんな風に思っちゃうことがいきなり、実はもう学校みたいな本の読み方なんですよね。

 本とおしゃべりするように読書を進めるとは、本当のおしゃべりのように「連想にまかせた自由な言語運動」があってこそで、それはけして本に対する失礼じゃありません。伊坂や宮部もいていいし、貞子もいていい。いえば、どれだけ脱線しようとも、必ず本筋に戻るように本のほうから引き戻してくれる、つまり本はいつでも「戻ってくることを待っていてくれる」メディアなんです。
 だからどんどん脱線しましょう。どんどん道草して、あれこれ関係ないことをストックしながら、読書を進めてください。だってそれも「関係ある」ことだからです。




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