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二章 実技編 3 [正しい本の読み方]




 3 初歩の三歩:対話的に読む2

 対話的に本を読む、というのはつまり、当事者としての自覚を持つということです。
 もちろんけして、「あたしは読書を楽しんでる当事者なのだ」という意味ではありません。「あたしはこの小説、この作家との関係の当事者なんだ」と自覚するということです。
 自覚して、ちゃんと対話/おしゃべりをする。

 本を一方通行な表現だと思っていたり、こっちが何もしなくても楽しませてくれる娯楽と思っているうちは、本は読めません。そういう「とーじしゃ」であるうちは本とは縁がない。だって向こうからあれこれ話してくれるんだから、自分のほうからだってあれこれ話しかけないのって失礼じゃないですか。
 あれこれ勝手に話してくる相手に、一方的に話されるのも癪でしょ。だから本との関係が大事なら、こっちからだって積極的に関わって、ムリヤリにでも作者に本音を吐かせてやるー!くらいの気持ちで読んでないと、いつまでたっても本はこちらに心を開いてくれません。「そのままの姿」を見せてくれない。楽しい話をどんどんしてくれる優しい顔をしながら、でも一方的に話すばかりの頑固者でもある、本ていうやつは。

 けどまあ分かると思いますが、そんな風にして本が心を開いて、「そのままの姿」であれこれ話をしてくれるようになると、がぜん読書は快楽的なものになりますね。それまでの「楽しい」とは違う、喜びでもあるけど傷つきもするし、失望もするけど至福でもあるような、まあそういう濃厚な相手になってくれます、本は。
 要するに恋愛セックスみたいなものですから、これ。

 だから前節で話したように、分かんないことがあったらじゃんじゃん聞いて、本のほんとの姿をむき出しにしてやるー!くらいのスタンスが必要なわけです。
 素っ裸にしてやるー!。
 そういうスタンスと同時に持っておかないとならないのは、当然のことながらこれです。

・合いの手を入れる

 *

 ふだんの友達の対話/おしゃべりのように、「へえ」「そうなんだ」「それでそれで」「あちゃー、そりゃたいへんだったね」といった合いの手を入れながら読む。本とのおしゃべりの当事者になるには、ふだんどおりの「おしゃべりの当事者」として振る舞えばいい、単にそれだけの話ですね。
 けども、合いの手がないと相手もしゃべりづらいし、こっちだって、その会話に参加してる感がどうも薄い。友達といっしょに「この場を楽しんでるなあ」感が弱い。これはやっぱりさびしいことです。逆に言うと、本を相手にするときだって合いの手を入れながら読めば、(勝手に)本に参加してる感を持つことが出来ちゃうわけですね。それでどんどん充実できる。
 というわけでじゃあ、例はなんでもいいんですが、この本のこの箇所にしておきましょうか。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。私の生まれ育った家が貧乏だったからです。女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、私は勉強が好きでした。

 湊『告白』の一節、主人公・森口悠子の自己告白の一部ですが、これに合いの手を入れてみます。(分かりやすいように適当なところで改行します)。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(うんうん)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(なるほど。じゃあどういう?)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(あらま。それでそれで)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(たいへんだったんだ)
 私は勉強が好きでした。(そうだったんだ。えらいじゃん、森口)

 こんな感じですよね。はいじゃあ、みなさんもやってみましょう。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。私の生まれ育った家が貧乏だったからです。女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、私は勉強が好きでした。

 ここで注意してほしいのは、
・やっぱりはっきり発音すること
 です。前節の疑問符と同じように、頭の中でぼそぼそ呟いてるだけじゃダメ。ふだんのおしゃべりと同じように、相手にはっきり伝わる声量と滑舌で応答する。
 それから、
・なるべくふだんどおりの言葉遣いにする
 べつに本や作家といったって、特別えらいわけではないので、敬語を使いたくても丁寧語くらいにしておく。丁寧語版もやってみましょうか。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(ええ、はい)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(そうでしたか、ではどういった理由から?)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(そうでしたか、それで?)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(そういった親御さんもいらっしゃいますよね。それで?)
 私は勉強が好きでした。(そうでしたか。森口さんは真面目な方ですね。ご苦労なされたようですね)

 こんな感じ。
 最初にやったのはタメ口版、今のが丁寧語版ですが、ま、バリエーションはいくらでも生めるわけです。「同い年の友達とのタメ口」「後輩にきくタメ口」「部活やサークルの先輩への丁寧語」「先生や大人の人への丁寧語」…他他他ですが、まずはいちばんしゃべりやすい「仲のいいコとのタメ口」か「目上全般への丁寧語」くらいがちょうどいいですね。

 *

 ところで、すでに気づいてる人は気づいてるはずですが、この「合いの手を入れる」とは実は「客観性を持つ。客観性を持続する」ための方法だったりします。読書に際し必要な客観性を体得する練習、とでも言いましょうか。

 前節の「疑問を持ったら聞く」は、読書の当事者になるための最初のアプローチです。つまり能動的に本/作家を知っていくための第一歩ですけれど、こんどの「合いの手」は、そうして近づいた相手から逆に一歩引くこと、でもって一歩引き続けるという、そのためのアプローチですね。
(つまりふだんのおしゃべりとは、どれだけ親密で共感的で一心同体的に盛り上がるものでも、かならず客観性の下にあるということなんですけどね。人は「それが何かを客観的に判断してから→その関係に入っていき→盛り上がり→話題が変わるとまた客観的に一歩引き…」という運動を繰り返す生き物なんですね)。

 ともあれ客観性、ゆえにこの「合いの手を入れる」が発展すると当然、

・ツッコミを入れる

 にもなります。やってみましょう。
 そもそもこの例文は、『告白』の主人公が「教師をやめる」と突然言いだした段から繋がるものですが、

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(おいおいそこから始まるのかよ、て)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(そういうほうが特別なわけでしょ? だったらあえて言うようなことじゃない気もするが…)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(唐突というかなんというか、そっちのほうがトクベツな気が…)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(ずいぶん古いこと言う両親すねー)
 私は勉強が好きでした。(なんの自慢だっつうの)

 合いの手を入れるのはけっこう大事なことですが、こういう意味のないツッコミ版には陥らないようにしましょうね。ことに初心者のうちにこういう斜に構えた観点を持ってしまうと、後々の読書に響きます。例の「自分なり」から抜けられないまま、さらに読書が卑しくなる。
 とはいえ、そういったツッコミ的観点も持ちつつ「積極的に本に従う」も保っていると、実は「批評」が成り立ちます。みなさんにはまだ先の話ですが、その例も見せておきましょう。

 いざ辞めるとなると改めて教師って何だろうと思います。(そこから話し始めるような話題だってことですね。じゃあそのつもりで聞きます)
 私が教師になったのは、人生を変えてくれた恩師がいるからとかそんな特別な理由ではありません。(言う必要のないことを言うということは、なにかの伏線でしょうか。あるいは、単なる前ふりでしょうか)
 私の生まれ育った家が貧乏だったからです。(唐突な告白、ゆえに何か重要な問題に繋がるってことでしょうか、ここ)
 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(価値観が旧弊、森口さん何歳でしょうか?)
 私は勉強が好きでした。(進学しなくても勉強はできます、つまりあなたが欲したのは「学校という場所で教師から何かを教わるという形」だということですか?)

 こういった合いの手をきちんと分析していくと、実は『告白』(「聖職者」)の裸の姿の一部がちゃんと見えてきたりします。例えば、進学しなくても勉強はできるのにそうしなかった森口とはじゃあどういう人物なのか、という考え方をすると、「本当の森口悠子像」というのがちゃんと見えてくる。よってこれは批評になるわけです。

 最後に、もひとつ面白い例を出しましょうか。どうでもいいようなついでですが、校正者としての朱入れが批評に繋がるという例です。

 女の子なんだから進学は諦めてくれと両親に何度も言われ続けましたが、(「何度も言われ続けた」は重複表現。「言われ続ける」とは「何度も言われる」ということ。よってこの場合、「両親に何度も言われましたが」または「両親に言われ続けましたが」が適当。ただし、重複表現による強調を意図しているならこの限りではない)

 こういう指摘をするのが校正なんですが、森口の性格を「両親に繰り返し進学を反対されたことをいつまでも根に持っているような、恨みがましくも内向きで陰湿な性格」だと考えれば、後者の「重複表現による強調」としてこの表現は通るんですよね。むろん『告白』(「聖職者」)の中で。
 でもってもちろん、この「イヤミス作品」の「いやーなところ」とは、これと同種の森口の陰険さ、陰険な事件に向けられてるものなわけです。なにもラストで嫌な気分になるまでもなく、端々に主人公・森口の内向きな陰湿さは表現されている。

 *

 合いの手を入れながら読む、というのは、

・対話的な読書の仕方を強める。それを持続させる
・そうして本や作者との親近感を強めつつも、客観性も確保できる
・最終的にそれは、校正や解説、批評にもなりうる

 というものなわけです。なのでこれからは読書では、書いてあることにふんふんうなずいてばかりはやめて、「へえ」「そうなんだ」「それでそれで」「そりゃいいね」「そりゃたいへんだったね」などなど、どんどん本に話しかけていきましょう。最初はそれくらいで十分です。「へー」とか「あらまあ」とか、そんなくらいで。

 そういう応答を繰り返していれば、もっと内容のある合いの手がうてるようになります。それこそ、親しくなればなるだけ、友達と濃い会話ができるように。
 言い換えれば、読書初心者にありがちな(現国の授業で習った本の読み方しか知らない人にありがちな)、「全体または重要な部分のみに、しゃっちょこばった『感想らしい感想』『意見らしい意見』を持つような読書」はしなくなります。あるいはその「しゃっちょこばった」に反しそれを卑下するような、あえてくだらないツッコミを入れて笑うような、品のない意見や感想も持たなくなります(ひとりきりで笑うような、または内輪で笑い合うだけの)。

 そうして会話みたいなおしゃべりみたいな読書に慣れていくと、「あ、この合いの手は我ながらうまい!」と思えるようなものも、すぐに生まれます。そういう自分じしんの言葉は、もう本に書いちゃいましょう。前節で話しましたけどね、本にはどんどんメモしていい。
 あたしはこの本のここにこう思ったよ。この本さん、作者さん、あたしはここでこう感じて、こうあなたに話したよ。そういう自分じしんと本との記録/記憶を残していく。

 はい、今日はここまで。




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